3 黒波家の場合

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 物音に隆盛は目を覚ました。  何か固いもの同士がぶつかったような、大きな鈍い音がした。  聞き間違いかと訝りつつ時計を見ると二十三時を過ぎていた。 (寝過ぎたか)  もう少し早い時間に起きて準備をするつもりだったのに、よほど疲れていたのだろうと自分を慰める。  思い返せば睡眠で疲れがとれたことなど一度もない。  明日しなければならないこと、さらに言えば起きた直後からさせられることを細かく管理されていたから、睡眠もスケジュールの一部に過ぎなかった。  窓の外を覗く。  記者の姿はない。  今日のところは引き揚げたようだ。  手早く着替え、そっと部屋を出る。  小腹が空いたので何か口にしようとキッチンに向かう。  文江がおかしくなってしまったので、冷蔵庫の中は出来合いのもので溢れている。  豪鉄は家事の一切を彼女に任せきりにしていたため、卵焼きひとつ満足に作れない。  隆盛に至っては料理を覚える暇があるなら勉強をと、食材を手に取ることさえ許されなかった。  キッチンに続くドアを開けた瞬間、異様な臭いが隆盛の鼻腔を突いた。  肉の腐ったような不快な臭いだ。  しかも空気が妙に生暖かく、忌避すべき湿気が肌にまとわりつくような感覚さえある。  その理由はすぐに分かった。  リビングに豪鉄が倒れていた。  仰向けになっている彼の腹部からは夥しい量の血液が流れだしている。  それが床に至り、じわりと広がっているせいで、赤黒い水たまりで転んだように見えた。 「父さん、そんなところで――」  寝ていたら風邪をひくよ、と言いかけてやめる。  無駄なことはしない、という父親の主義を受け継いだ彼は、そのとおりにした。  声をかけても無駄だ。  豪鉄はもう死んでいるのだから。  ならば次にやることは通報のハズなのだが、彼はそれを躊躇った。  死んだ父を見下ろす息子、という構図をもう少し続けたいという想いからだ。  悲しくはない。  涙も流れない。  呼吸も脈も瞳孔の反射も確認していない。  にもかかわらず父は死んだものとし、俯瞰する以外の行動をとらなかった。  少年の心を満たすのは解放感。  これでもう口うるさく指図されなくて済む。  自分との優劣を比較されることも、文江と組んで人格を否定されることもない。  ああ、終わったんだ。  それが隆盛の感想だった。  人は死ねばそれまでだ。  努力して、苦労して、積み重ねて成功を手にしても、死んでしまえばそれらは全て無くなり、つまり無駄になる。  そしてその道が長く険しいほど、失う時は実に呆気ない。  これで楽になれる。  隆盛は嗤う。  そして思う。  もしかしたら彼を殺したのは自分かもしれない。  記憶にはないし、体のどこにもその感触は残っていない。  しかし僅かでもその可能性を疑ってしまうのは、例えようのない清々しさを味わっているからだ。  それでも理性はどうにか保っている隆盛は、やはり人としては通報しなければならないと思いなおす。  スマホは壊してしまったから壁際に置いてある固定電話に手を伸ばす。  その時、彼は背後に何者かの気配を感じた。  振り向いた直後、腹部に激痛が走った。  痛みはすぐに熱に変わり、全身を駆け巡る。  刺されたのだと分かった時には既に床に伏していた。  最後の力を振り絞り相手の顔を見ようとしたが、彼の視界に映ったのは黒いブーツだけだった。 「成敗完了」  やがて力尽き、動かなくなった隆盛を見下ろし、何者かはそう呟いた。
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