1 一之瀬家の場合

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 便箋一〇枚に綴られていたのは、複数の同級生から受けていたいじめについてだった。  その内容は生々しく、彼が心と体に負った傷とそして痛みを読み手に味わわせるには充分すぎるほどだった。  教科書に落書きをされる、私物を捨てられる等はかわいいもので、金品を要求されたり、万引きを強要されたりと過激な内容が具(つぶさ)に書かれている。  何月何日に誰に何をされたか、という形式で記されていたため、いじめの実態はもちろん、加担した者の名前もしっかりと挙がっていた。 「こんな……うちの子が……」  遺書を読み終えた美枝子は崩れ落ちた。  まさか、という想いが強い。  さまざまな感情が彼女の中を駆け巡ったが、最後に残ったのは悔恨だった。  幸治も同様だ。  普段は仕事を理由に息子とはあまり接点を持っていなかったが、彼が追い詰められ苦しんでいるのに気付けなかった不甲斐なさを呪う。 「兆候はなかったのか?」  彼は責めるような調子で美枝子に問うた。 「分からなかったわ。何もなかったのよ。だって痣ひとつなかったのよ!」 「そんなことはどこにも書いてなかったじゃないか!」  直接的な殴る蹴るといった暴力を受けた、という記述はない。  顔でも殴られていれば母親でなくても誰でも気付けただろうが、やられた内容はユウキを一見するだけでは察することができないものばかりだ。  遺書には要求された金を持っていない時は母の財布から盗んでいた事実も書かれてあるが、家計簿もつけず金に関しては大雑把な管理しかしていない美枝子は、財布の中身が日々減っていることにも気付けなかった。 「部屋に閉じこもるようになったのも、きっと……」  勉強のためだけではなかったのだろう、と幸治も思い至る。  ユウキの部屋からは切り刻まれたノートや損傷した携帯電話、毎月の小遣いでは買えないような大量の衣服等が見つかった。  おそらく通報を阻止するために、万引きによる戦利品の一部を持たされたのだろう。 「ああ、ユウキ……どうして……どうして……!」  美枝子はただ泣き崩れるばかりだったが、幸治は真実を明らかにしたかった。 「これを学校に持って行こう」  彼は怒っていた。  息子の異変に気付けなかった後ろめたさから逃れるためには、学校に怒りをぶつけるしかなかった。  正当性はある。  少なくとも一日のうち六時間以上は学校が生徒を預かっている。  担任教師がいるのもそのためだし、学校はただ勉強を教えるだけの場所ではない、というのが幸治の持論だ。  彼自身、学生時分は指導が今よりもずっと厳しく、おかげで心身ともに鍛えられ、忍耐力が培われたと思っている。  担任教師は何を見ていたのか。  他の教師たちは何をしていたのか。  そう責め詰ったところでユウキは二度と戻ってこないが、せめて息子の無念は晴らしてやれるだろう。  やや歪んだ正義感で乗り込むと、すぐに校長室に通された。 「この度はなんと申し上げてよいか……」  百瀬が平伏するように言った。  幸治たちとは弔問時にも言葉を交わしたが、改めて二人そろって来られると悪い予感しかしない。 「こんなものが部屋から出てきました」  懐から遺書を取り出す幸治の双眸には明らかな怒気が見えた。  同席していた九頭は瞬時にその意味を悟り、顔色を変えた。  もし考えているとおりなら大変なことになる。 「これは?」  百瀬も薄々勘付いてはいたが、表書きがないのをいいことに素知らぬふりをした。 「ユウキの遺書です」  しばらく呼吸をするのも忘れていた百瀬はこの場から逃げ出したくなった。  何よりも恐れていた物が差し出され、危うく気を失いそうになる。 「遺書、ですか……」  落ち着け、と言い聞かせる。  まだそうだと決まったワケではない。  もしかしたら彼は重い病に冒されて余命幾許もなく、将来に悲観して首を吊ったのかもしれない。  あるいは自発的に大きな罪を犯し、良心の呵責に耐えかねて命を絶ったのかもしれない。  そういう可能性に一縷の望みを賭けたが、 「息子はいじめられていました。何をされたか全部書いてあります」  幸治の言葉がそれを打ち砕いた。  担任教師を同席させなくてよかった、と九頭は思った。  あの男は知恵が回るほうではないから、不要な発言をして一之瀬夫妻を刺激してしまうかもしれない。  そうなっては話し合いどころではなくなってしまう。 「息子が発見された日の保護者会で、いじめはなかったと仰ったそうですね」  震える手で遺書を黙読していた百瀬の頭上に、幸治の冷たい声が降ってくる。 「その発言を撤回してください。このままではユウキが浮かばれません」 「そ、それはもちろん……最善を尽くします」  中ほどまで読み進めて内容の凄惨さに心を揺さぶられたが、いま百瀬が考えなければならないのは全く別のことだった。  この場をどう収め、やり過ごすか。  そのために最適な言葉を選び抜く。 「まずは事実関係の確認をさせてください。生徒たちにもアンケートをとり、いじめの有無と具体的な内容を――」 「確認も何もそこに書いてあるだろ! いつ、誰に、何をされたか、全部書いてんだよ! 今さら調べることなんてないだろうが!」  幸治がテーブルを叩きつけた。 「息子はいじめを苦に自殺したんだ!」 「はひ……いえ、しかし……片方の言い分だけではなんとも……ここに挙がっている生徒からも聞き取りをしなければ公平性が」 「やった奴はやってないって言うに決まってる!」  興奮して幸治が立ち上がった。  それを美枝子と九頭が二人がかりで押さえる。  百瀬はといえば殴られると思ったのか、ソファの後ろに隠れるように身を屈めていた。 「お気持ちは分かりますが、どうか落ち着いてください。学校側といたしましてもこの遺書のみを以て見解を述べることはできません。しっかりと調査して実態を把握して、その上で対応させていただきます」  ここからは九頭の出番だ。  百瀬は先ほどの幸治に圧倒されてもうまともに喋ることもできないだろう。  口をすべらせてつまらない口実を与えてはならない。 「誤解のないように申し上げておきますが、けして遺書の真偽を疑っているのではありません。ただこれに書かれている内容と事実を突き合わせ、加害生徒がいるならその者に認めさせてからでなければ意味がありません」  彼の口調は淡々としていて淀みがなく、だからこそ説得力があった。  百瀬の怯懦ぶりには激昂してしまった幸治も、遺族の心情に寄り添うような九頭の言い分に平静を取り戻す。 「すみません、取り乱してしまって。息子があまりに可哀想だったものですから」 「お気持ち、お察しします。ところでこちらの遺書は、見つけられて真っ直ぐにこちらに持って来られたのでしょうか?」 「どういうことですか?」  美枝子が訊き返した。 「たとえば先に警察やマスコミに見せたりなどは――」 「いえ、それはしていません」  百瀬は安堵した。  誰の目にも触れていないなら、いくらでもやり方はある。  愛する息子を喪ったことで今は遺族も苛立っているが、時をおけば穏便に解決もできるだろう。  という考え方は九頭も同じだったようで、 「くれぐれも外部にお見せにならないようにお願いします。騒ぎが大きくなって加害生徒が委縮すれば、罪を認めなくなる可能性がありますので」  あくまで一之瀬家のため、という点を強調して言った。  不安なら遺書を学校で預かる、とまで彼は提案したが幸治は峻拒した。  その後、迅速かつ誠実に対応するという百瀬の言葉を受けて、二人は学校を後にした。 「私は母親失格だわ」  息子は毎日ここを通って登下校していたのか、と想いに耽りながら美枝子が呟く。 「いや、美枝子のせいじゃない。お前はよくやってくれた。俺が仕事で忙しくしてる間もしっかり見てくれてたじゃないか。だからユウキも優しくて良い子に育ったんだ」 「でも、あの子は……あの子が苦しんでいるのに気付けなかったのよ」 「それは――」 「ずっと渋ってた山登りに行ったのも、きっと私たちに気を遣ってのことなのよ。だってあの子、いい思い出ができた、って言ったのよ。それをどんな気落ちで言ったのか……私は理解しようとしなかったのよ」 「いや、悪いのはあいつらだ。巡谷渉、須貝新一、空木勝也……他にも何人かの名前があった。見て見ぬふりした奴らも同罪だ」  ユウキが遺書を遺してくれたのは不幸中の幸いだった。  もしこれがなかったら、二人は息子の死の理由を永遠に知ることができなかったかもしれない。  美枝子は唇を噛んだ。  今回の件、学校側が調査に乗り出すという。  となればじきに加害生徒やその保護者が謝罪の言葉を述べるだろう。  そのとき、自分はどんな顔をしてどう応じればいいのか、彼女には見当もつかない。  簡単に許すことなどできはしない。  どんなに謝られてもユウキは戻ってこない。  ならばけして許さず、一生悔やみ続けさせるべきではないか。  それでも足りないくらいの罪を彼らは犯したのだから、罰としてはあまりに軽すぎるくらいだ。  そう思う反面、いつまでも許さないのはユウキの想いに反するのではとも思う。  二人は息子を優しく真っ直ぐな男の子に育ててきた。  もし彼が生きていて彼の言葉が聞けるなら、彼らを許してやってほしいと言うかもしれない。  そう言っても不思議ではないほど、彼は優しくて他人想いだったのだ。  結局、故人の無念を晴らすといっても、所詮は生きている側の勝手な思い込みだ。  本当に無念だとするなら、遺書にも恨みつらみが書き殴られていただろう。  だが実際にユウキが遺したのは、いじめの事実と両親への感謝、そして自死を選んだことへの謝罪だけだった。  誰を恨むでも憎むでもなく、ただ事実のみを列記した息子からの最期のメッセージに、美枝子は胸が張り裂けそうだった。
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