オープニング

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オープニング

 灰色の街を行き交う人の群れ。  営業回りの会社員、あるいは夜勤明けの眠そうな顔や買い物客。  彼らが通りを歩く理由はさまざまだ。  共通しているのは互いに関心を持たないことだけ。  誰が何をしようとどこへ向かおうとも、それは自分には一切関係のない事柄だから、敢えて無視する必要すらない。  ここにはいつも、静かな賑やかさがあった。 「Xは無罪! Xに自由を!」  不意に大声が響き渡り、人々が何事かと振り返る。  駅前の広場の一角に旗が靡いている。  20人ほどの集団が大きな幕を掲げ、通りゆく人たちにビラを配っていた。  前に置かれた簡易のテーブルは記入台を兼ねていて、脇には種類ごとに署名用紙が積まれてある。 「Xのしたことは罪でしょうか! 彼の勇気ある行動に誰が石を投げられるでしょうか!」  前に立つ女が拡声器で叫ぶと、後ろの一団がそれに続く。 「もしXがひとりの犯罪者として裁かれるのなら、なぜ彼らは裁かれないのでしょうか? 彼らとXとの間にいったいどれだけの違いがあるというのでしょうか!」  彼女の声は怒りとも悲しみともつかない色を帯びていた。  野次馬たちはこれがたんなるデモ集団でないとすぐに分かった。  この数か月間に起きたいくつかの事件の被害者であることは、幟や幕に書かれた文言を見れば明らかだ。 「彼らの行為は暴行であり、恐喝であり、殺人です。それら数多くの罪が見逃され、そのために苦しんでいる人たちがたくさんいます。今からでも遅くはないのです。彼らが相応の罰を受ける当たり前の社会にしていきましょう! 悲劇を繰り返してはなりません!」  必死の訴えに対し、人々の反応は薄い。  奇異の目を向けて通り過ぎる者もいれば、遠巻きに批判する者もいる。  被害者の心情に寄り添ってXを罪に問いたくないという意見と、行為のみで判断すれば当然に罰せられるべきだという意見は、真っ向から対立して折り合わない。  その声はどちらかに偏っているワケではなく、複数の調査会社の統計では拮抗しているという。  しかしその調査結果を数値どおりに実感するのは難しい。  街頭でこの件について問えば有罪派が多数となるが、インターネット上ではXを称賛し無罪だとする主張が圧倒的だ。  そのためかこの界隈で活動しているのは彼女たちだけではない。  通りを挟んだ向かい側では、まるで競うように正反対の主張をぶつける一団がいた。  Xの犠牲者やその遺族を名乗る者たちが集まり、彼の残虐性を訴えて世論を味方につけようとしている。 「Xは非道な殺人鬼だ! 何人も殺して平然としている悪魔だ! 未来ある子どもたちの命を奪った殺戮者に死罪を!」  死刑にするべきだ、と過激な言葉を並び立てるこちらの一団はビラを配ったりはせず、代わりに毒々しい色使いと書体で大きな幕を飾り、人々に訴えている。  どちらにも一定の正当性があり、大義があった。 「皆さんの力をお貸しください。私たちと一緒に理不尽な世の中を変えていきましょう」  女は額に大粒の汗を浮かべながら声を張り続けている。  そこにひとりの男が近づいてきた。 「すみません。これに書けばいいんですか」  テーブルの上にある用紙を手に取る。 「署名いただけるのですか? ありがとうございます」  近くで看板を持って立っていた女が駆け寄ってきた。  署名用紙はXの無罪を求めるものと、加害者に対する厳罰化を求めるもの、被害者家族に対する保護および情報開示に関する要望の3種類に分かれている。 「僕もこの事件には関心を持っていますから」  そう言って女が持っている看板を見上げる。 “悪逆非道に正義の鉄槌を下したXに無罪を!”  過激な文言だな、と彼は思った。  だが彼女たちにはこれでも優し過ぎる表現なのだろうと察する。  ――八鷹コウ。  3枚の用紙に署名した彼はそれを回収箱には入れず、直接女に手渡した。 「この度はお気の毒でした。たしか娘さんを亡くされたんですよね」  八鷹は伏し目がちに言った。  女はしばらく呆気にとられたようにぽかんとしていたが、 「ええ、ええ……そうなんです。親として、あの子を守ってあげられなかったことが悔しくて……」  やがて吐き出すようにそう言った。 「僕もテレビで観て体が震えました。こんなひどいことがあっていいのかと」  とても許すことはできないと息巻くと、女は思わず涙ぐんだ。 「あの、ありがとうございます。そんなふうに言っていただくのは初めてで――」  たしかに彼女が言うように世間の風当たりは強いように見えた。  実際、興味本位で近づいてくる人はあっても、趣旨に賛同して署名までする者は殆どいない。 「同じように思っている人はたくさんいますよ。そういう人たちがもっと声をあげて実際に行動するべきだと思います」  八鷹は憮然として言った。
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