タンホイザー序曲

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程なくして、親子リレーに参加する生徒と保護者の入場行進が始まった。私は重い足取りでスタート位置まで移動し、仕方なくウォーミングアップを始めた。 屈伸する。心の中でスタンディングスタート、スタンディングスタートと唱え続け、それからアキレス腱を伸ばす。股関節や骨盤周りのストレッチを終え、腿上げをしていると、とうとう担任の先生がやってきてバトンを渡された。 間もなくスタートだ…。 ああっ!私はどうすればいいんだ! 地団駄を踏むように激しく腿上げをしてみる。 あああああああ ー! 叫びたい気持ちを抑えて、小刻みに跳ねてみる。 んん…このシューズ…。 感触を確かめる。 なんだ?このクッション。 感覚を踏みしめる。 悪くない。 いや、もしや…。 さらに跳ねる。 マサイ族みたいに跳ねる。 これはなかなか…。 この縄文式イエローシューズは悪くない。まあまあじゃないか。 …いや正直に言おう…。 いい。これはいい! 軽さもさることながら、一番の驚きはそのクッション性だ。着地の際、踵にかかった圧力が、体重移動と共に爪先へ伝わる。しかもゲルが硬化しながらだ。それが蹴り出しの力を倍増させていた。 青木の言葉が脳裏をよぎる。 『クッション材と高反発新素材の格子ソリトン的配列』 使い道のなかったタンホイザーゲルの配置を再考する事により、このシューズは魔法のような蹴り出しを実現しているではないか。アライメントの調整は必要だが、それは大した問題ではない。 青木が言いたかったのはコレだったのか…。 足の裏に懐かしい日々の感触が甦り、私の心は一瞬、時を超えた。 これはまるで…翼を得たようだ…。 その時、親子リレーの開始を告げるアナウンスが流れ、私はスタートラインへと促される。 いよいよ決断の時だ。 「位置について」と、スターター役の先生がピストルを掲げた。 「オン・ユア・マーク」そうつぶやいて、スタートラインに両手を着いた。 他の親達がスタンディングスタートで構える中、気づくと私はクラウチングスタートを選んでいた。 両肩を思いきり前に出し、低く身を屈める。 いつの間にか、私はつまらない大人になっていたようだ。青木…お前のシューズを履いて思い出した。がむしゃらに走っていた日々を…。 「よーい」 の声に、運動場が一際大きな声援に包まれる。 「セット」とつぶやいて、腰を上げ制止する。 万国旗、青空、陽炎に揺れるトラック、石灰の混じった砂の感触。スネの角度が重心を捉えた。 トリガーを絞る指。 一瞬の静寂。 放たれる撃鉄。 地面を離れる指先。 発砲音。 蹴り出す! 一歩、二歩、三歩、加速する。 校舎に反響するピストルの音を振り切るように、シューズは強く強く、私を前へ押し出してゆく。 100メートル先で、バトンを待つ息子が振り返った。 振り出す腕に、清々しい風を感じる。 お前にこの気持ちを伝えたい。 離陸するように、私は翼を広げた。 おわり
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