タンホイザー序曲

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 そう、約束した。確かにした…何てこった! 「あなたやっぱり忘れてたんでしょ」 まだ、おにぎりを持ったまま固まっている私の左頬に、冷たい視線が注がれている。 「何を言ってるんだ」  全力で否定して逃げ切るつもりだったが、妻は呆気なく追いついて来た。 「だってあなたの服スーツだし、靴だって革靴…」 「いや、これはその…このあと会社に戻って大事な会議があるんだ!」  慌てて上着を脱いで、妻に押しつける。 「それに…ああ…なんだ、ほら見てみろ、運動靴なら持っている」 私は弁当箱の横に置いてあった紙袋を拾い上げると、中からシューズを取り出して妻に見せた。 「あら、本当」 そして、ドヤ顔でシューズに足を突っ込んだ。 ふう…なんとか誤魔化せたようだ。  だが、問題はそこではない。 必死で気持ちを静めようとする私の耳に、聞きたくないアナウンスが飛び込んで来た。 「親子リレーに参加する保護者の方は、入場ゲートまでお集まりください」 できれば聞かなかった事にしたいそのアナウンスを、別世界での出来事のように感じながら、私の目は入場ゲートを探してせわしなく彷徨う。 入場ゲート…入場ゲート…。  運動場、トラックを囲む人々、プールのフェンス、フェンスの奥の木々、ポプラの葉、登り棒、あった!入場ゲート。ちょうどいま、紅白のゲートから、50メートル走に出場する一年生の子供たちが出て来たところだった。  ティッシュで作られた赤と白の花が咲き誇る入場ゲートにたどり着くと、そこで出番を待つ生徒の中に、息子、俊也の姿を見つけた。俊也は笑顔で手を振ってきたが、私はこわばった笑顔しか作れず、直ぐに目を逸らしてうつむいた。うつむいた足元には、蛍光イエローの派手でヘンテコなシューズが、左右の足にきちんと収まり気を付けをしていた。 シューズを持っていたのは不幸中の幸いだった。  だが、しかし…もとはと言えば、このシューズのせいで息子との約束を忘れたのではないか!蛍光イエローがとぐろを巻く独特のデザインを見ていると、苛立ちが胸に込み上げて来た。
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