タンホイザー序曲

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 だが青木瞬矢は一般向けのシューズに理想を持ち込もうとする。 私だって理想のシューズを作ってみたい。そう思っていた時期もあった。だがそんな思いはとっくの昔に諦めた。理想と現実は違うのだ。人生は妥協の連続だ。  なのに、アイツはまだ、それに気づいていない。  しかし、それだけなら大した問題ではない。問題なのは新商品の試作会議で青木が理想を語る度に会議がしばし中断する事だった。ソールの材質がどうの反発力がどうのと言う度に、私は「青いな…」と苦々しくつぶやき、ヤツの企画書に『不採用』と殴り書きするのが常となっていた。  そうこうしているうちに、新作シューズの開発のスケジュールは大幅に遅れ、ついに先日、私は専務に呼び出された。 このままでは期限に間に合わない。そうなれば私の評価も立場も危うい。  だがそんな事にお構いなしの青木は、アキレス腱反射がどうの、着地の衝撃の非線形波動理論がどうのと、小難しい言葉を並べて、あげく、靴底のクッションに新素材を使うと言い出したのだ。 その新素材とは、本社がドイツ企業との共同研究の末作り上げた『タンホイザーゲル』の事だった。  それは、我が社の黒歴史に刻まれる物質の名称、何の使い道も見いだせなかったソールの材料だ。  本社の人間が口にする事さえはばかる大失敗作。  あんなモノを引っ張り出してどうする気だ?  融通は利かないが、青木瞬矢はもう少し賢いヤツだと思っていた。  コンセプトから作り直す気か?  買い被り過ぎたか?  また専務に呼び出される。  次は小言では済まない。  私の我慢は、もう限界だった。 持っていたボールペンを新素材の資料に叩き付けて立ち上がる。勢いで椅子が倒れ、静まり返った会議室に私の激昂が轟いた。 「あんなモノ使って何になる!」  会議室は凍りついた。みな何事かと口を開けたまま呆けた顔で私を見ている。感情的になっている自分が信じられなかったが、それでも胸に込み上げる怒りが、言葉が、どうしようもなく喉を押し上げて来る。 「一般向けのシューズなんだ!理想はいらない。カッコ良ければ性能なんてどうでもいい!」 「でも…」  と言いかけた青木を、私の言葉が追い越す。 「それとも何か?靴底がプラスチックで固まったカチカチの競技用シューズを、一般向けに発売しろとでも言うのか!スパイクでもつけろと言うのか!」 「いえ、そんなつもりじゃ…」 「スパイクが突き出たシューズで、散歩ができるのか!買い物に行けるのか!満員電車に乗れるのか!」 「…」 「お前は、妥協と言う言葉を知るべきだ!」   その後、青木が完全に沈黙してもなお、私は嗚咽のような言葉を浴びせ続けていた。
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