タンホイザー序曲

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こうして、私の足元には縄文式シューズが…ってまてまて、そんな事はどうでもいい。いや、どうでもよくない。けど、いまは考えるな。ええっと…。 「パン!」 乾いた音が私を現実に引き戻した。 トラックを見ると、そこにはピストルの合図で一斉に駆け出す子供達の姿があった。1年生の50メートル走が始まったのだ。 すると、次の種目はいよいよ親子リレーだ。結論まで、あと五分とないだろう。 結論?何の結論? そうスタート、スタートだ! クラウチングスタート? 無理、無理 無理。スタンディングスタートに決まっている。 スタンディングから腿が上がるのを確かめつつ徐々にスピードをあげていく。 そうだ、それしかない。 その時、観客の間から「ああっ」と短い声が漏れた。スタートしたばかりの男の子が転倒したらしい。 …転倒はまずい。…逆に転倒さえしなければいいのではないのか?勝機は逃すが、転倒しては意味がない。 見ると、地面に手をついて身を起こそうとするその顔は、痛みと悔しさに歪んでいた。 そもそも、突然とダッシュしてアキレス腱でも切ってみろ、しばらくは家で療養だ。家にいたって妻に邪魔にされる。仕事を休んだらボーナスに響く。家のローンも残っている。息子、俊也の学費だってこれからどんどん高くなるんだし、消費税も上がるんだ!クラウチング、とんでもない。スタンディングだ、ぜったいスタンディング。 何事も無難に。 仕事だってそうだ。シューズだってそうだ。性能や新素材の挑戦がどれだけ市場に受け入れられる?売れなければ意味がない。そうだろ、青木!大人だったら妥協するもんだ。逃げてるんじゃない。そうやって俺は、いろんなものを守ってきた。仕事も家庭も。 そんなふうに考えていると、トラックに一人取り残され、いまにも泣き出しそうだった男の子がむくりと起き上がったではないか。それから足を引きずるように、一歩一歩、ゴールを目指して走り始めた。走ると形容するにはあまりにも速度の足らないその足取りを、なぜだか私は、目を放す事が出来ずに追い続けた。 私だって、全力で挑戦したい時もあった…。
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