タンホイザー序曲

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 しゃがんでするか、立ったままするか、それが問題だ…。  トイレの話ではない、スタートの話だ。  私はクラウチングスタートにするか、スタンディングスタートにするか迷っていた。  と言うのも、今日は息子の運動会なのだが、忙しさにかまけていた私は、親子リレーに出なければならない事をすっかり忘れていた。 思い出したのは運動会当日。つまり今日、いまこの瞬間だ。  頭の中が真っ白になった。周囲の喧騒は一瞬で消えた。青空にはためく万国旗も、運動場の周りをぐるりと取り囲むレジャーシートと人々も、現実感を失ってみんな偽物みたいに見える。  そう言えば一ヶ月ほど前、息子から親子リレーがあると聞いた気がする。  よほど唖然としていたのか、隣で座っていた妻の愛子が私に向かって言った。 「あなた、もしかして忘れてたんじゃ…」 「バッバカな、そんなわけないだろ」と言ってはみたものの、声がうわずっているのが自分でも分かる。  いや、しかし、これはまずい。いくら私が昔、陸上競技のスプリンターだからって、もう何年も走っていない。走ると言えば、終電に乗り遅れそうな時と、会議に遅刻しそうな時くらいだ。なんの練習もなしに、突然走れるはずがない。
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