許嫁のヴァイオリニスト

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許嫁のヴァイオリニスト

 倫礼のスリッパは、どこかの城かと勘違いするような長い廊下を歩いていた。黄色がかった緑――萌葱(もえぎ)色の絨毯(じゅうたん)の上を右に左に行ったり来たり。 「(れん)、どこにいるんだろう?」  ブラウンの長い髪が戸惑いという線を描いている後ろの、同じ廊下に裸足が不意に現れた。  細身のピンクのズボンの上には、はだけた白いシャツ。何重にもかけたペンダントのチェーン。  どこかいってしまっている黄緑色の瞳は、倫礼をアンドロイドみたいな無機質でつかまえた。 「何? お前」  皇帝で天使で大人で子供で純真で猥褻で、数々の矛盾だらけのまだら模様の声を聞いて、倫礼は振り返った。  そこには、地上にいる全ての人々をひれ伏させるような威圧感のある夫が、一ミリのブレなく歩いてくるところだった。 「あぁ、焉貴(これたか)さん。蓮、どこに行ったか知りませんか?」  ヨチヨチ歩きの子供が少し離れたところで横切ってゆく。 「あれ、さっき怒ってたから、ヴァイオリン弾いてんじゃないの?」  あの銀髪、超不機嫌俺さま夫ときたら、いつもそうなのだ。倫礼は頭が痛い限りで。だが、仕方がないのだ。頑として引かないのである、蓮も。 「あぁ、子供がいなかった時からそうだったからなぁ。ヴァイオリン持って出て行っちゃうんだよね。どこで弾いてるんだろう? 家広くなっちゃったから……」  廊下の端を見ようとするが、ない。(かす)んでいる。門番みたいに、夫の一人に構っているわけにもいかず。山吹色のボブ髪はさっとかき上げられ、 「ピアノのある前の部屋でしょ?」 「ありがとうございます」  倫礼はパタパタと走り出した――――  ――――神が与えし陽光が入り込む窓。その前に立つすらっとした体躯。黒のゴスパンクファッション。フリフリのシャツはひとつのシワも許さないというように綺麗な曲線を描く。  女性的なボディーを持つヴァイオリンは、スピード感のある三拍子を奏でていた。上へ上へと張りつめるように登ってゆくメロディー。  鋭利なスミレ色の瞳は今は、浸りというまぶたの裏に完全に隠されていた。銀の長い前髪はストイックに、弓を動かすたび、サラサラと動く。  蓮は振り返る、今日までの日々を――  ――俺には両親がいない。兄弟もいない。親戚もいない。失ったのではなく、もともと最初からいなかった。  そんなことは、おまけの倫礼(あれ)が今生きている世界ではあり得ないだろう。  俺は男女の間に生まれた子供ではない。  ――陛下の分身だ。  生まれ出て、別の人格となり、個人となった。誕生してすぐに十八歳にまで成長し、俺を待っている女がいると聞かされ、陛下の元を去った。あの日以来、俺は陛下の御前(ごぜん)に個人的に訪れたことはない。  陛下とは何の関係もない。父親ではない。従兄弟などと言われたりもするが、やはりそれも違う。俺はそう思う。  俺はそういう出生で、実際は九年しか生きていない。儀式として行う結婚式の影響でさらに成長し、今の年齢は二十三歳だ。  小さい頃の記憶は、あれの両親が、親代わりで俺を育っててくれたものだ。許嫁(いいなずけ)だ。あれが俺を必要としている以上、特に何の障害もなく、自然と結婚をして、子供も生まれた。息子が三人に娘が一人だ。  この世界では、真実の愛がなければ子供は絶対に生まれない。だから、あれと俺は好きでいる。そういうことになる。俺があれを好きでいて、あれが俺を好きなのはよくわかっている。  あれは俺よりも長く生きている。あれはいつだって、ごまかさず、逃げ出しもせず、誠実だった。  だが、あれは俺が生まれるよりも前から、(ひかり)を好きでいた。一度だって、そんなそぶりは見せなかった。しかし、好きな女のことだ、言わなくてもわかる。  俺は別に気にすることもなかった。それどころか、あれが素直に自分の気持ちを表せないことに、イライラする日々だった。諦めようと何度もしているのもわかっていた。それでも、できないのも知っていた。  俺はヴァイオリニストとして、音楽事務所に所属した。そこに光がいた。  初めて会った時、  綺麗だと思った――  洗練された感性で、品があり、貴族的で、人々を惹きつけるほどの魅力があった。今考えれば、俺はその時から、光のことを好きだったのかもしれない。  いつも事務所の廊下ですれ違っては、俺が光を見ての日々が過ぎていった。  だがある日――  光が他の人間に罠を仕掛けて、悪戯しているのを見かけた。相手が戸惑っているうちに、言葉をすり替えるという罠だ。頭もよかった。  そうして、光が決めると言って、相手に断れなくした上で、相手の望みを叶えたり、プレゼントをしたりしていた。俺は滅多に笑わないが、吹き出してまで笑ったことがある。  ある日、声をかけようとした。だが、光から話しかけてきた。話してみると、自分の感性ととてもよく合い、貴重な存在と時間になった。同僚として、食事をして、話をしてという月日が過ぎていった。  しかし、三年前に変わった。光が陛下に命令され、あれのそばに行くようにと言われたそうだ。  光はあれの存在など知りもしなかった。あれが勝手に恋をして、光を想い続けていただけだ。  鈍臭くて、失敗ばかりで、すぐに泣いて、それでも、諦めずに進んでゆく。あれはそういう性格だ。  だが、光は感情を持っていても、冷静だ。あれが光を好きでいても、同情などで流されるような男ではない。  最初は何とも想っていなかったらしい。命令にただ従って、あれから見えない場所へ来て、うかがっていた。それだけだ。  光も色々と複雑な身の上で、陛下のご命令に関しては、考えるところがあったそうだ。だが、この帝国で暮らしている以上、命令に逆らうことはできない。  光には知礼(しるれ)という女がいた。しかし、十五年もの間結婚しなかった。何かわけがあってしないのだろうと、俺は思っていた。  この世界は、失恋したり別れたりが起きない。だから、みんな恋人ができれば、結婚するのが普通だ。それをしないということは、何かあるになる。聞きはしなかったが。  息子の百叡(びゃくえい)がピアノを習いたいと言い、光のところへ通うようになった。そのころからだ。光と知礼、自分たちが家族ぐるみで付き合うようになったのは。  そうして、いつの間にか、光が俺にとって、同僚でもなく、人としてでもなく、性的に好きに変わっていた。知礼に対してもそうで、愛は重複した。  一対一が普通で、配偶者がいる身で誰かを好きになるなど、今まではあり得なかった。確かに、あれの願いを叶えられるところまで来ていると思ったが、全員がお互いを好きにならないと、関係は発展しないし、続かない。  誰か一人でも嫌だと言うのなら、自身の気持ちは隠しておくべきだ。そう思った。  だが、今だからわかることだが、全員が隠しておくべきだと思っていた。全員お互いに好きだったが、相手を困らせてはいけない。自分のパートナーを傷つけてはいけないと、そう思っていたそうだ。  しかし、光があれのことを好きになっていたのは、わかった。好きな男のことだ。言わなくてもわかる。このまま、微妙な関係で、月日は過ぎていくのだと思った。  決断しようにもなかなかできなかった。それは光のことを想ってだ。あれは体が弱い。強い刺激を受けたり、情報が多く入ってきすぎると倒れる。この世界で気絶することはまずない。それでも、光はよく倒れる。  光は俺よりもずっと繊細にできている――  ルールはルール。  決まりは決まり。  順番は順番。  規律からはずれるものは絶対に受け入れない。そういう性格だ。複数婚、ましてや同性愛など許せないだろう。俺はそう思っていた。  だがある日、あれがいつもの直感で気づいた。法律はみんな仲良くしかないと。だから、四人で結婚するのはおかしいことではないと。  話は簡単にまとまり、おまけのあれに伝えにいった。光が初めて話しかけた時の、あれの号泣ぶりといったら、いつまでも叶わないと、バカみたいに信じていたんだろう。  十五年も光を密かに想っていた、あれの気持ちを俺は叶えてやったまでだ。  ――――気づくと、ヴァイオリンの音は止んでいた。陽はだいぶ西に傾き、乱れた銀の前髪を手で整えようとすると、ドアがノックされた。
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