策略的なピアニスト

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策略的なピアニスト

 (れん)がドアに向かって返事を返すと、どこかずれているクルミ色の瞳を持つ、倫礼が顔をのぞかせた。中庭が見える洋風の部屋を見渡して、 「あれ? 蓮、(ひかり)さんと一緒じゃなかったんだ」  あごからヴァイオリンをはずすと、奥行きのある少し低めの声が響いた。 「あれは学校だ」  授業参観ではない。運動会でも文化祭でも、そどころか普通の日。開けていたドアにヨロヨロと、倫礼は寄りかかって、頭を抱えた。 「また〜! 親バカしに行って〜〜」 「仕方がないだろう。あれと百叡(びゃくえい)は親子になりたかったんだからな」  それはいいのだ。叶ったのだから。そうではなく!  あの優雅な王子さま夫ときたら、目を離せば、我が子の様子をこっそり見にいって、小学校の廊下をどこかの高貴な城に変えて、エレガントに(たたず)んでいるのである。  あきれている倫礼の視界は、部屋の赤い絨毯ばかり。 「はぁ〜。今ごろ、先生に叱られてるだろうな。どの先生かはわかるけど……」  ドアをいつまでも開け放ったままで、他の夫の行方を聞きにきている妻に、蓮はしっしっと追い払うように、手の甲を押し出した。 「出て行け」 「はい……」  赤い絨毯の上から、萌葱色のそれに、倫礼のスリッパは急いで戻って、パタンとドアを閉めた。部屋の中からの穏やかなヴァイオリンの音を聞きながら、倫礼は扉に背中でもたれかかる。 「あの二人さ、似てるんだよね。髪の長さは違うけど、リボンで結ぶと、光さんと同じように見えるんだよね」  今ごろ、学校でバトルを繰り広げているであろう夫二人を思い浮かべながら、廊下を右を見て左を見てを繰り返す。 「私が行ったら、ミイラ取りがミイラで、仕事増やしちゃうしなぁ〜」  というか、あのリボンで髪を結んでいる夫を怒らせたら、大変なのである。地の果てを越してまでも追いかけてくるほど、執念深いのだ。 「待つか……」  ため息まじりで言って、倫礼は来た廊下を戻り出した――――  ――――そのころ、学校の廊下に、膝上までの長さがある、細身で紫のロングブーツが、クロスさせる寸前のポーズで立っていた。  黒のズボンもほっそりとしていて、白いカットソーは貴族的な(よそお)いの逆三角形。神経質な指先は少しだけ曲げられ、細いあごにそえられている。そばで揺れるのは、十字のチョーカーと甘くスパイシーな香水。  冷静な水色の瞳には、ピンクがかった銀の、ひまわりのような縁を描く髪を持つ、小さな人が映っていた。  去年の今ごろは、どうやっても、自分になかった幸せ。その至福の時の中で、光命(ひかりのみこと)は冷静な頭脳でなぞる、今日までの日々を――  ――私が生まれた時分は、人は生まれですぐに十八歳まで成長し、一人前の大人として生きていくことが世界の法則でした。  私と夕霧は(おな)い年の従兄弟(いとこ)同士。誕生日も三日しか変わりません。非常に近い存在です。  彼は生まれて数ヶ月で、覚師(かくし)と結婚しました。私は知礼(しるれ)という素敵な女性に出会いました。夕霧には子供が生まれ、お互いの幸せを素直に喜べるよい関係でした。  ですが、幼い頃の体験がない者の心に不具合が見つかり、陛下からご命令が下されたのです。  ――生まれてから、十八歳までをやり直すようにと。  通常の十五倍のスピードで時が流れる場所で、やり直しをすることが決まりました。  私と夕霧の関係はお互いを補う関係です。私にないものを彼が持っている。彼にないものを私が持っている。ですから、物心がついた時には、  ――私は夕霧を愛していました。  ですが、十八歳までの疑似体験が終了すれば、元の生活が待っています。彼には家庭があります。私には愛する女性がいます。  ――全ては狂ってしまった。  ルールはルールです。決まりは決まりです。そちらは守らなければいけません。同性愛というものは、以前はこちらの世界では存在していませんでした。  ですから、私は神の御心(みこころ)(そむ)き、不浄な存在なのだと思いました。自身の想いは何かの間違いだと、そちらのように思うように決めたのです。  しかしながら、大人になった体は勝手に反応し、私にも夕霧にも、お互いを性的に求めていることは、刻印を打たれるように伝わり続けました。  ですが、私は受け入れることはできず、夕霧は私のことを気遣って、見て見ぬ振りをしてくれました。  事実から可能性を導き出しては、自身の気持ちを変えられる方法を試しました。しかしながら、想いは消えるばかりか、業火(ごうか)が燃え盛るがごとく、悲痛という傷跡を私の心に深く、幾重ものスパイラルのように刻んでいきました。  解消できない気持ち、誠実を貫きたいがために、私は知礼とは結婚しませんでした。恋人同士のまま、十四年の時は過ぎていきました。  ピアニストとしてはCDを二枚ほど出していました。ですが、私は体が弱く、ツアーを行うこともできず、仕事も中途半端となり、何もかもが可能性のまま、事実として確定しませんでした。  (りん)――彼女との出会いは、  ――いいえ、彼女が私をいつから愛していたのかの話をしなければいけませんね。  残念ながら、詳しい経緯(いきさつ)は伝えられません。陛下からの許可が下りていません。倫本人もあまり話したがりません。ですから、いつから彼女だけが私のことを知っていたかという事実からお話ししましょう。  私が生まれた時、十五年前から、彼女は私の存在を知っていました。さらには、私に好意を抱いていた、という話は去年初めて聞きました。  それではなぜ、彼女が私に興味を持ったのかの話です。そちらは、私の思考回路に非常に惹かれたそうです。  私は理論です。負ける、失敗することは決してしません。自身でも十分自覚しています、負けず嫌いだと。  私は直感というものを持っていません。何かをひらめいたり、気分で物事は決断しません。勘ははずれる時があります。冷静な判断をするためには、感情は必要ありません。  それでは、どのように決断を下すかですが、以下の通りです。  事実から可能性を小数点以下二桁まで導き出し、勝つ、成功する可能性が八十二パーセントを超えた時、私は言動を起こします。  彼女は直感であり、感覚の人です。思考回路は自身の習慣です。そちらを直すのは非常に困難です。  ですが、彼女の言葉を借りると、理論武装にハマったそうです。考えすぎて眠れなくなりました。そうして、三ヶ月も寝不足が続き、ある朝、そちらでも起きようとして、彼女は気を失ったそうです。  おかしな人ですね。倒れるほどまで、一生懸命なのですから。  ですが、私と彼女がめぐり会う機会は訪れませんでした。私は彼女の気持ちも存在も知らないまま、知礼とともに生き、夕霧とのことに悩みながら、十一年の月日を過ごしました。  しかしながら、  ――四年前の十一月二十四日、火曜日、十一時五十三分十六秒。  に、陛下から命令が下されたのです。  ――倫礼の本体ではなく、もう一人の彼女のそばへ行くようにと。  どのようなお考えがあったのかは、そちらの時は導き出せませんでした。ですが、こちらの帝国で暮らしている以上、陛下のご命令は絶対です。ですから、私は彼女のそばへ行くことになりました。  そちらより以前から、音楽事務所――恩富(おんぷ)隊で、見かけていた彼女の配偶者、蓮の視線が私にいつも向かってきているのは知っていました。ですから、以下の可能性がありました。  ――蓮が私に気がある、です。  可能性をより正確に導き出すために、私は彼に罠を仕掛けたのです。  すれ違ったのは、七十八回。  廊下の角での出会い頭は、右からが三十八回。左からは二十七回。  窓越しの視線の方向の確認は、四十六回。  蓮は全てで、私を見ていました。  ですから、先ほどの可能性は零.零一パーセントから上がり、九十九.九九パーセントです。ですが、彼は私に話しかけてきませんでした。  しかしながら、彼女のそばへ行くのです。彼に許可を得るのは当然です。ですから、私は彼に話にかけたのです。  ――同日の十三時十四分十七秒。  のことです。蓮は非常に洗練された感性を持ち、私の美的センスを突き動かすような存在でした。いつしか私は、蓮にも惹かれていったのです。  陛下のご命令通り、倫からは見えない場所で、彼女をただうかがう日々が続きました。当初は、彼女を愛したほうがいいという可能性は、私の中には零.零一パーセントもありませんでした。  しかしながら、  ――三年前の八月十五日、月曜日、十一時二十分四十七秒。  に、私の中に可能性が出てきたのです。  そのころです。蓮たちの息子、百叡が私にピアノを習いたいと申し出てきたのは。彼とのレッスンはとても素敵な時間でした。  才能があり、私と違い、明るく素直な子です。彼は私に新しい可能性をもたらしました。そちらは、  ――私にも父性があった。  いつしか私は、百叡と親子になりたいと望むようになりました。ですが、こちらも(ゆる)されない願いでした。  その後、倫が何かの言動を取るたび、私の中の可能性の数値は上がり続けました。彼女はいつも一生懸命でした。何事からも逃げませんでした。他人のことを優先し、自身の事は後回し。  ですが、彼女は他の人の幸せを心の底から喜べる、非常に心の澄んだ人でした。  そうして、  ――去年の七月十五日、日曜日、十七時二十三分二十五秒。  に、私の中で以下の可能性が変わったのです。  倫礼を愛したほうがいいという可能性が九十九.九九パーセント……。  ――いいえ、私は彼女を愛している。百パーセント、事実として確定です。  もう一人の倫礼とは生きている法則も違います。身分も違います。ですが、私が愛したのは本来の倫礼ではなく、もう一人の彼女なのです。  夕霧との想いは未だ置き去りでしたが、私の中の優先順位は倫礼が一番になったのです。そのころはすでに、蓮とは家族ぐるみで付き合いがありました。  ――去年の七月二十八日、土曜日、十九時十五分零八秒。  倫と蓮が私たちに言ってきたのです。四人で結婚しないかと。  彼女たちが私の中のルールを変えたのです。みんな仲良くという法律であり、結婚に対する規定はないのだと。  冷静な頭脳という盾で常に抑えている、激情という名の(けもの)が、私の心の中で雄叫びを上げました。  ――私は神の御心に従って、十五年間生きていたのだと。間違いは何もなかったのだと。  そうして、私の中の既成概念という重い呪縛の鎖は、彼女たちの愛によって打ち砕かれ、安寧という未来が私に訪れました。  ――翌日の七月二十九日、日曜日、十四時二十五分三十七秒。  私はもう一人の倫礼と初めて話をしました。結婚をすると伝えると、涙をこぼし、声も上げず静かに泣いていました。彼女はどんなに悲しくても辛くても、一人でひっそりと泣く女性なのです。  私は彼女を十五年間も待たせてしまいました。こちらの罪を私は償っていかなくてはいけません。  陛下がご命令を下されたのは、人々に新しい人の愛し方をお広めになるためだったのだと、もう一人の倫礼が私に教えてくれました。  自身に嘘をつく必要はもうありません。ですから、私は夕霧にプロポーズしたのです。  ――――キーンコーンカーンコーン。学校のチャイムが我に返らせた。  冷静な水色の瞳には、無邪気な笑顔を向けて、小さな手を振っている我が子が映っていた。  上品に振り返す光命の背後から、マゼンダ色の長い髪と邪悪なヴァイオレットの瞳が地獄へと突き落とすように迫っていたのだった。
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