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その日、幼稚園に通う六歳の優真と三歳の岳を迎えに行った帰り道、少しだけ遠回りをして帰ることにした。
途中で優真が、電車が見たいというので、三人で線路沿いの道を歩いた。
電車が通るたび、優真も岳も大はしゃぎで喜んだ。
しばらく歩いていると橋にたどり着き、その向こうにちょうどスーパーが見えた。
そこで買い物を済ませようと決めた。
橋を渡っている途中、何処からか少年の笑い声が聞こえた。
優真はその声に引き寄せられるかのように、橋の欄干の隙間から下を覗き込んだ。
「危ないよ」
そう言いながら、私も橋の下を覗き込むと、橋の下を流れる川で楽しげに遊んでいる少年たちがいた。
どうやらそこは、人工的に浅瀬になっているようだった。
それを見た優真も岳も川遊びがしたいと言い出し、私の手を両方で引っ張った。
近くに川床に下りる階段を見つけ、少しだけど約束をして川床へ下りた。
階段の下には、椅子に座りながら川で遊んでいる少年たちを見張っている中年の男性がいた。
こんなところに川遊びが出来る場所があるなんて。
「気をつけて入ってよ」
見張り役の男性が、私を睨むように言った。
川遊びが危険だとわかりつつ、その男性の顔が少し怖かった。
私は靴と靴下を脱ぎ、子供達も裸足にさせると、優真と岳の手を握って川に入った。
そこは水遊び出来るスペースになっていて、20センチほどの深さしかなかった。
川の上流と下流にはテープが張られ、その間で子供たちが遊んでいた。
まだまだ水は冷たいが、思った以上に川の水は綺麗だった。
優真と岳は二人で仲良く水遊びしている。
私は川床に腰を下ろし、二人の様子を見ていた。
川には小さな魚や生き物がいるようで、少年たちが網ですくっているのを見て、優真と岳も何やらじっと川の中を探っているようだった。
川のせせらぎに癒されながら、あっという間に時間が過ぎた。
「優真、岳、そろそろ帰るよー!」
そう言うと、二人は私の方へ走って来た。
いつの間にか服も頭もびしょびしょで、持っていたタオルでは拭き切らず、風邪を引いては大変だからとスーパーには寄らずに真っ直ぐ帰ることにした。
帰り際、優真も岳も何だかとても嬉しそうに浮かれていた。
途中で、旦那から残業で帰宅が遅くなるとメールが入り、家に帰ってお風呂に入ることにした。
近頃、優真はお風呂に一人で入りたがるようになったが、まだまだ一人で入れるには心配で、三人で一緒に入ってから、私と岳が先に出ることにしている。
脱衣所で岳と優真が服を脱ぐ。
その時、優真の足元にゴトンと音を立てて何かが落ちた。
見れば、私の拳ほどの大きさで苔と泥がビッシリついた汚い石だった。
「何、この汚い石!」
思わず口に出すと、服を脱ぎ捨てた優真は慌てて石を拾って浴室に入った。
「ちょっと! そんな汚いものお風呂に入れちゃだめよ」
「綺麗にするからいいの!」
そう言って、優真は石鹸で汚れた石を洗い始めた。
岳も追って、浴室に入っていった。
蛇口から流れるお湯が汚れた石の上に落ちると、排水溝に向かって茶色と深緑に変色したお湯が流れていく。
後で排水溝の掃除をしなければならないと、私はため息が出た。
「どこで拾ったの、そんな石」
私が岳の頭と体を洗っている中、優真は熱心に石を洗う。
泥と苔も落ちて、こぶのようなものをつけた台形の石肌が見える。
「川の階段の下」
「よく見つけたね。そんな(汚れた)石」
「呼んだから」
「え、呼んだ?」
「そう、ぼくらを呼んだの」
岳も相槌をうった。
私には何を言っているのかよくわからなかったが、明日にでも公園の草むらに捨ててこようと、気にはしなかった。
そして、岳をまず浴槽の湯に浸からせ、今度は優真の頭と体を洗う。
岳は石を貸してとしつこく優真に言っていたが、優真は断固として渡さなかった。
次第に岳がぐずりだし、私は早々に泡を洗い流して湯に浸かるように優真に促した。
湯の中で、二人は洗った石を仲良く眺めていた。
一体、こんな石の何が良いのか。
私にはまったくわからない。
少しして岳が湯から出たいと言い出し、私と岳は浴槽から出た。
優真はまだ入っていたいと言うから、
「じゃ、100数えたら出なさいね」
といつものように伝え、優真は返事をして1から数え始めた。
1,2,3,4,5,6、
その間に、私は岳を浴室から出す。
20が過ぎた頃、脱衣所で岳の体を拭いたり、着替えをさせたりする。
優真の姿は見えないが、声が聞こえるから安心。
30が終わり、40、50と数えた頃、岳の着替えが終わってタオルで頭を拭き始める。
60、70、89で、岳はキャッキャと脱衣所のドアを開けてリビングに走っていきそうになるのを止める。
90、91、92、93、94、95
「ドライヤーかけるからまだ行かないの!」
岳が嫌々と駄々をこねる。
96、97、98、99、
あ、もう100数え終わっちゃう。
「100!」
途端に優真の声が聞こえなくなる。
ドライヤーを止めると沈黙が流れた。
駄々をこねていた岳も突然静かになった。
いつもなら、100を数え終えると優真はザバン!と音を立てて浴槽から出てくるのに。
溺れた!?
そう思った私は、慌てて浴室を覗いた。
「優真?」
浴槽の湯面は穏やかで、湯気が立ち上っている。
湯に浸かっていたはずの優真の姿が消えていた。
私は状況を理解できずにいた。
誰もいない浴槽の湯を片手でゆっくりとかき混ぜた。
岳が浴室を覗く込み、「にいに(兄)は?」の言葉で、私は一気に血の気が引いてパニックになった。
「嘘、優真どこ行ったの!?」
姿を見てはいないが、優真の声は聞こえていたし、脱衣所から目を離していないから、勝手にお風呂から出たとは考えにくい。
それなのに、浴室に優真の姿がない。
まるで神隠しのようだった。
とにかく岳をリビングに連れていきソファに座らせると、私はバスタオル姿でとにかく優真を部屋中探し回った。
けれど、リビングを見回しても優真の姿はない。
キッチン、トイレ、二階の寝室、子供部屋、書斎。
どこを探してもいない。
不安と湯冷めで、体が震えてくる。
泣きそうになりながら、私は震える手で旦那にメールをした。
パニックになっていた私の説明は、かなり雑で大雑把だった。
優真が100数えたら消えた。
浴槽から消えた。
どこにもいない。
すぐに旦那から電話がかかって来て、落ち着けと言われようやく現状を説明した。
警察に連絡すべきかどうかを問うと、私の説明ではうまく伝わらないだろうと。
旦那は『これからすぐに帰るから、それから決めよう』と言って電話を切った。
その時、ソファに座っていた岳が突然立ち上がり、浴室に向かって歩いていった。
「岳、一人で浴室に行っちゃだめよ」
私の忠告が聞こえないのか、岳は脱衣所のドアノブにつま先立ちをしながら手をかけた。
注意しようとした瞬間、浴室から大きな声で、「100!」という優真の声が聞こえた。
慌てて浴室に戻ると、そこにはキョトンとした顔で湯に浸かっている優真がいた。
手には、川で拾った石をしっかり持っていた。
私は安心してどっと疲れてしまった。
「どこにいたの! 早く出なさい」と優真をお風呂から出し、タオルで体を拭いた。
その間、優真は不思議なことを話し始めた。
「僕ね、神様の温泉に入ったんだよ」
「神様の温泉?」
「お風呂で100を数えたらね、突然真っ白になって、気づいたら知らない森の大きな温泉の中にいたんだよ。それでね、目の前に大きな蛙がいたんだ」
その大きな蛙は、私よりの何倍も何倍も大きくて、自分を蛙の神様だって言ったらしい。
ずっと川の浅瀬にいたけど、何処かの小僧がいたずらをして、硬くて冷たい地面に放り投げられた。
そして、長い年月の間に、雨で汚れ、苔まみれになって、固い、固い石になった。
それを優真が綺麗に洗い流してくれたから、大きな蛙はとても感謝していたそうだ。
それで、できればまた川に返してほしいと。
優真が了承すると、大きな蛙はまた100数えるように言った。
1,2,3と優真はまた100を数えていった。
10を数えたところで、森の木々が風で揺れ始めた。
20を数えたところで、湯けむりの中に誰かの影が現れた。
30を数えたところで、キツネやタヌキがやってきて温泉に浸かり、
40を数えると、鳥のさえずりとともにリスと野鳥がやってきて、
50を数えると、鹿の家族がやってきた。
60、70を数えたところで、今度はとても大きな猪と猿が温泉に入って来た。
80を越えると、顔に傷のある大きな熊がやって来た。
90を数えていると、どこからか羽根の羽ばたく音が聞こえてきて、湯けむりから現れたのは黒い翼のある鼻の長い赤ら顔の妖怪だった。
優真はそれを本で見たことがあって、「天狗」だと言った。
天狗が優真に気づいたところで100を迎え、気がついたらまた浴室に戻っていたという。
それを聞いた岳が、僕も神様の温泉行きたいと言い始め、私は優真と岳を無理やりに浴室から追い出した。
優真を着替えさせている時、私もその石を見せてもらった。
よく見れば、形は蛙に見えなくはない。
そこに四つの小さな穴があって、目と鼻にも見える。
けれど、やっぱりただの石だ。
それより、また入浴中に100を数えて居なくなっては困る。
だから、私は優真に約束通り石を川に返そうと言った。
岳は嫌だと拒んだが、優真はすんなりと了承した。
翌日、優真と岳が幼稚園に行っている間に、私は蛙の石を持って川に向かった。
川床への階段を下りると、その日も監視員のおじさんが椅子に座っていた。
時間がまだ早く、川には監視員の人以外に誰もいなかった。
私はまた川に下りると、邪魔にならないようになるべく下流で石を川に沈めた。
石の頭がほんの少し水面から顔を出している。
川の流れが穏やかで、石は流されず留まった。
けれど、私が立ち去ろうとした時、石は川の流れに沿って動き始めた。
その動きは、川に流されているというよりも、自ら流れているように見えた。
そして、石から足のようなものが生えたかと思えば、スッと勢いを増して下流に流れていき、あっという間に見えなくなった。
その足は蛙のようにみえた。
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