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1 GET UP LUCY
携帯電話のアラームをセットしたはずなのに、目を覚ましたら朝の十時をとっくに過ぎていた。
あわてて化粧をしようとして、パウダーファンデーションを床に落としてしまった。真ん中にトレーの金属が少しみえていたけど、まだ半分以上残っていたのに、大きくひび割れてしまった。このまま使うと、パウダーファンデーションは粒々になる。粒々はそのうち粉々になって、手や洋服を汚すだけの代物になってしまう。
雨が降るらしいので、泥はねが気にならないようにジーパンにして、捨てようか迷っている靴を履く。全体に小さな星の形の穴がならんでいる紺色の靴。気に入ってよく履いたので、つま先とヒールの革が擦れている。
待ち合わせの場所に着くと、小刻みに貧乏ゆすりをしながら、コーヒーを飲んでいるレーヤの姿がみえた。
「お前から呼び出したんだろ、なのに一時間も待たせて」
レーヤは、いきなり切れた。
「だいたい、お前はいっつも、そう」
怒りは長々と続いた。私が聞いていようがいまいが。
「で、なに? 用事って」
そういって初めてレーヤが黙った。
離れた席の男女の低い話し声、OLっぽい三人の笑い声やカップが受け皿に置かれる音、それが混ざりもしないで聞こえてくる。
「別れたいんだけど」
私が声に出すと、レーヤが馬鹿にしたような目で、にらんできた。
「なにいいよるん。なんで、お前からそういうこというわけ。俺がいうならともかく。俺がお前をふるんよ」
きっと私からばっかり好きだった。もうピアスだらけの耳も、痩せぎすの体もみたくない。好きだったところが全部ひっくり返ってしまった。
「ということで。じゃあ、元気で」
「ということで、じゃねえし。元気でいられるわけねえし。なんで急に」
レーヤがみるみる情けない顔つきになった。私はレーヤに初めて勝ったような気がして、口元が笑いそうになる。それを我慢して出口に向かった。
「俺がふったんだよな? 涼子」
背中のほうでレーヤの声が聞こえた。
なんで早くこうしなかったんだろう。なんでレーヤのことを嫌いになっていく自分を認めたくなかったんだろう。なんでレーヤを好きでいる自分でいたかったんだろう。
俺は顔と音楽で食っていく。それが口癖だったレーヤには、年上の彼女もいたし、年下の女の子たちもいた。その癖、他の新しい誰かをいつも目で追っている。私とレーヤは今年で三十になる。ずるずると三年は長過ぎたよね。令弥をレーヤと呼んでくれって言い出したあたりから、ちょっと嫌になり始めていたのかも。自覚はなかったけど。
駅ビルのショーウインドーでは、ベージュのトレンチコートを着たマネキンが、きれいなグリーンのスカーフを巻いていた。レーヤに一度だけプレゼントをもらったことがあった。誕生日でもない、クリスマスでもない、なんでもない日に。
あれはなんの気まぐれだったんだろう。ペパーミントグリーンに大きなクリーム色の水玉のスカーフをくれたのだ。私の趣味じゃなかったけど、引き出しにしまって、ときどき取りだして眺めた。
いつも期待しないようにしていた。レーヤといる時も、カップの底で溶け切れずにたまっている砂糖のような、他の女たちの存在を気にしないようにした。
これからは、私が好きな音楽だけを聴いて、私が観たい映画だけを観て、私が食べたい物だけを食べて、私が行きたい所へ行く。自分のためだけの時間をひさしぶりに取りもどしたのだ。
雨が降り出した。急いで駅の構内に入る。そして階段をゆっくり上がった。
『涼子』
レーヤの声が聞こえたような気がして、振り向く。と同時にバランスがくずれた。不利向いた姿勢のまま、駅の階段をずり落ちていく。
階段を登ろうとしていた女子高生が、驚いた顔でバレーのブロックみたいに両手を上げて、私を止めてくれた。それをみていた通りがかりのサラリーマンが、ぱちぱちと拍手を送っている。私は立ち上がるとすぐに、女子高生にぼそぼそとお礼をいった。彼女は困ったような顔をして突っ立っている。
ほんとにありがとう、と小さく繰り返して、私は階段を駆け上がった。
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