100円授業

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 翌週、同じ曜日の同じ時間に、二人は例のベンチの前で再び出会った。「また会えると思った」と口を揃えて笑い、恭子は舞との関係についての経過報告を行い、浩之は真剣な顔で相槌を打った。ついでとばかりに恭子が漏らしたいかにも思春期らしい親との確執にもアドバイスをすると、恭子は冗談めかして浩之を先生と呼ぶようになった。浩之は恐れ多いからやめてくれと断ったが、恭子に押し負けて好きに呼ばせることにした。  先週の礼も兼ねて、この日恭子は授業料と称して浩之に缶ジュースを奢った。以前浩之も利用した、公園の出口の前の自動販売機で購入したものだ。大きく「オール百円」と書かれているだけあり、売られている飲み物はすべて百円である。浩之は最初は拒否したが、呼び名と同じく押し負け、渋々『授業料』として紅茶の缶を受け取った。  それから二人の、毎週金曜日の夕方に公園で話すだけという奇妙な関係が続いている。  浩之が与える『恩師の受け売り』の言葉は、時に恭子の悩みを吹き飛ばし、時に心を軽くし、時に将来の夢へ向けて恭子を奮い立たせた。そしてしばらく経ち、恭子が人生相談の礼を授業料と称し毎週渡している百円の缶ジュースは、アイスからホットの季節へと移り変わった。  今日は二人が会う最後の金曜日だった。 「こうして恭ちゃんと会うのは今日で最後だね。本当はもっと一緒に話せたら良かったのだけれど」 「なに言ってるの。折角東京の大学に合格したのよ」 「喜ぶべきなんだろうね。分かっているよ」  恭子は不満げに唇を尖らせて、隣で丸まって座る背中を叩いた。 「そうだ先生、今日は何がいい?」  いつもの自動販売機を指差して恭子が尋ねる。 「いや……今日は僕が恭ちゃんに奢るよ。これでも一応、お給料をもらっているし」 「でも先生へのお礼だし」 「僕も君にたくさん教えてもらったんだよ。あんな目に遭っても前を向いて進む君に勇気をもらって、僕も一歩踏み出せた。だから、さ」  なにか言いたげな恭子を制して、浩之は自動販売機へと走る。その姿を見ながら恭子は独り言ちた。 「……確かに先生と出会った時はまあ、ひどい状況だったけど」  恭子は浩之の助言を受け、舞と話し合った。舞は決して悪人というわけではなかった。好き嫌いがはっきりしていて、難点といえばそれを隠そうとしない所である。故に恭子は面と向かって嫌いだと言われただけであり、何か陰湿なことをされたわけではなかった。孤立したのも他の人間が舞と恭子のいざこざに巻き込まれるのを恐れた結果であり、舞が根回ししたのではない。  舞が恭子に対して抱いていた苛立ちと嫌悪感は、互いに相手を攻撃しないという約束の許で冷静に話し合った結果、解決の方向へと向かった。恭子には他人の顔色を窺い過ぎて、その場を収める為に自分の意見を押し殺すきらいがあった。恭子が度々そうしているのを見掛けた舞はそれが気に入らず、嫌いだと述べたのだった。  そしてそんな自分自身が好きではなかった恭子は、この話し合いをきっかけに自分を変える努力を始めた。舞も言葉と配慮が足りなかったことを反省し、今では二人はクラスで最も仲の良い友人となりつつある。 「僕が君の立場だったら……君ほど前向きになれなかっただろうな」  浩之はココアを手渡しながら言った。 「恭ちゃんに未来を導いてもらったようなものだ」 「あら本当? 先生と生徒が逆転しちゃったわね」  おどけて言い、恭子はココアに口を付けた。熱くて甘い液体が喉を潤す。一回、二回と喉を鳴らし、缶を口から離した直後、恭子の膝に何かが触れた。驚愕の悲鳴を上げて見下ろすと、愛らしい柴犬が恭子の膝に前脚を乗せ、尻尾を振っている。赤い首輪から伸びるリードは蛇のように地面を這っている。一人の老婦人が慌てて駆け寄ってきた。 「ああごめんなさい、公園の前を通ろうとしたら、この子ってば一人で走っていっちゃって」 「構いませんよ」  恭子は笑顔で柴犬の頭を撫で、拾い上げたリードを婦人に渡してやる。 「ありがとう。旅行中の娘から預かった子なんだけど、きっとあなたを娘と間違えたんだわ」 「私、娘さんに似てます?」 「少しね、似ている気がするわ」  リードをしっかりと握り直し、婦人は恭子と浩之を交互に見やる。 「あなたたち、たまにここで話してるわよね。何度か見掛けて、親子ほど年が離れてるようには見えないし、どういう関係なのかしらと気になっていたのよね」 「親子でもキョーダイでもないですよぉ」  恭子がからからと笑いながら答える。 「あら、そうなの? おいくつかしら?」 「十八歳です」 「三十歳です」  同時に答えると、婦人は仲が良いのねと笑う。 「私たちは年の離れた友達ですよ」  恭子はそう説明した。 「そうなの、素敵ね。今日はお友達の時間を邪魔してしまってごめんなさいね」  それじゃ、と婦人は頭を下げてから、柴犬を連れて公園を去っていった。  二人は自然と公園の真ん中に設置された時計を見上げる。恭子の英会話スクールの時間が迫っていた。 「……もう、先生ともお別れだね」 「そうだね」 「今は舞ちゃんとも仲良くなれたし、学校も習い事も楽しんでる。お母さんとの喧嘩も減って……今では純粋に感謝してる。全部先生のお陰だよ」 「僕がいなくてもきっと君はそうなってた」 「先生ってばそればっかり。そういえば私たちって連絡先も交換してなかったよね」 「金曜日のこの時間に、ここに来れば会えたからね」  恭子はコートのポケットからスマートフォンを取り出して交換しようかと申し出たが、浩之は片手でそれを制した。 「君のスマホに僕なんかの連絡先が登録されていたら、僕は君のお母さんに怒鳴られてしまうよ」 「なにそれー。変質者じゃないのに」  笑いながら恭子はスマートフォンを仕舞い、残りのココアを飲み干して立ち上がった。初めて会った日のように、空き缶をゴミ箱へと投げ入れる。 「そろそろ行こうかな」 「もう暗いし、送っていこうか?」 「あはは、大丈夫よ。先生こそ気を付けなさいよねー」  恭子はくるりと反転して浩之を見下ろし、笑顔で手を振る。 「それじゃあね、先生。またいつか」 「うん。またいつか、恭ちゃん」  公園を出た恭子が角を曲がり、完全に姿が見えなくなってから、余韻に浸るようにじっとしていた浩之も立ち上がった。自宅へと歩きながら鞄からスマートフォンを取り出し、電話帳のアイコンをタップする。目当ての連絡先は名前と電話番号だけが登録されている。浩之は消去ボタンを押して、篠崎恭子の連絡先を削除した。  公園から五分も歩けば浩之の家に到着した。玄関で靴を脱いでいると、奥のリビングから母の千絵が顔を出した。 「浩之、あなたまだ荷造り終わってないでしょう。明後日には東京なのよ?」 「分かってるよ、母さん」 「バイトもいいけど、することをする時間は取りなさいよ」 「大丈夫だって。子どもじゃないんだから」 「十八歳はまだ子どもです。急に東京の大学に行きたいだなんて言い出した時も、随分と騒がされたものだわ」  くどくどと言う母に苦い笑みを返し、浩之は自室のある二階へ続く階段に足をかけた。目を閉じて恭子を思い浮かべる。大学入学を期に上京して一人暮らしをすることになったので、これから道で偶然恭子に会うこともないだろう。  浩之は閉じていた瞼を開き、階段を上った。
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