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「取扱説明書というか……哲学書かな。そういうのを人はそれぞれ持ってるんだよ」
浩之が菓子を添えて綺麗に洗濯とアイロンがけを施したハンカチを返した日から二か月が経った。返す際に雑談の延長で浩之が抱えていた思春期らしい悩みを零すと恭子は親身になって聞いてたまにアドバイスし、気がつけば次の週にも会って話す約束をしていて、そのまま二人は毎週金曜日に他愛ない話をする仲となったのだ。急用で片方が遅れる日もあった為、連絡用に電話番号も教え合っている。
「とにかくその人が何を大切にするのか、何故怒るのか、いつ幸せを感じるのか……そういうのを知ることが、その人を知ることなんだと、私は思ってるのね」
「ふぅん」
「他人の気に入らない行動にも深い理由があるのかもしれない。逆に優しい人にだって裏があるのかもしれない。人を好きか嫌いか判断するのはその人の哲学書をよく読んだ後でいいんじゃないかな」
「それは篠崎さんがDV男と別れた時の教訓?」
「もー、やめてよその話は!」
「ごめんごめん、怒らないでよ篠崎先生」
「こんなつまらない私の人生観を語るだけで先生って呼ばれてもねぇ」
「お姉さん」
「よろしい」
二人は声を上げて笑う。歳は離れていたが、良き友人となっていた。
ベンチで話す二人の手にはそれぞれジュースの缶がある。いつも先に到着している浩之が、恭子を待つ間に購入しているのである。
公園の出入り口の前に設置された『オール百円』と書かれた自動販売機で浩之が二人分の飲み物を買い、恭子に「色々教えてもらってるお礼だから」と片方を押し付けて、二人で飲みながら会話を楽しむ。それがいつもの光景だった。
二人の関係は二年間続き、春のとある金曜日。浩之は趣味の旅行から帰ってきている筈の恭子を公園で待っていた。高校三年生になったからと浩之は受験勉強に明け暮れていて、金曜日のこの時間が何よりの楽しみとなっていた。
しかし二時間待っても恭子は来ず、心配になった浩之が彼女に電話をかけると、数コールの後に出たのは恭子の母だった。恭子は入院していて会えないという。旅行先で恭子の乗ったタクシーが事故に巻き込まれ、頭を強く打ってしまったのだと。
恭子の母は言い淀んでいたが、浩之があまりにしつこく尋ねるので、観念したように歯切れ悪く話し始めた。
「恭子から話を聞いた事があるけど……あなた、最近恭子と友達になった男の子よね」
「はい」
「申し訳ないけど、今の恭子はあなたを覚えてないわ」
「え?」
「事故の衝撃で記憶喪失になってしまったの。ここ十年くらいの記憶がなくて……どうやら中身だけ高校時代に戻ったみたいで」
浩之は一瞬、自分が立っているのか座っているのか分からなくなった。震える声で恭子と話がしたいと懇願したが、恭子の母はそれを拒んだ。
浩之には過去の笑い話として話していた、暴力を振るう元恋人の件は、当時篠崎家で重い問題となっていた。周囲の協力を得てどうにか別れさせたが、精神的な傷を負った恭子はしばらくの間ふさぎ込んだ。
その一連の記憶もなくしてしまった今の恭子を見て、彼女の母は運命なのだと感じた。同時に思い出させないよう努める決意をした。
それからも浩之は何度か電話をかけたが、記憶が戻るきっかけになりそうな情報が詰まった恭子のスマートフォンを彼女の母が壊した為、途中から繋がらなくなった。
浩之は心の大事な部分が欠けたような気持ちでそれからを過ごした。第一志望は東京にある大学で、今の学力のままでは合格が厳しい事と、下宿する為に親の了承を得るのが難しそうだという事を以前恭子に伝えていたのだが、頑張る気力も湧いてこなかった。
そして夏になり、とある金曜日。偶然公園の前を通った時、浩之は恭子を見つけた。吸い寄せられるように声を掛け、己と同年代の中身になってしまった恭子に眩暈を覚えた。
浩之の知る恭子はいつも世界のすべてを知ったような顔をして、しかし自分は無知だと言い張り、あらゆるものへの理解を模索して生きていた。それが今は頼りなく、些細な事に心を振り回される繊細な少女になっている。最初は元に戻ってほしいと考えたが、今の恭子を知るにつれてその気持ちはやがて消えた。
今の恭子は旅行関係の仕事に就きたいのだと言って、職業訓練学校に通っている。それまで働いていた会社は辞めて、夢を叶える為に。
大人の年齢で中身だけ子どもになってしまうという目に遭いながら、くさらずに夢を叶えようとする恭子を見て、浩之は再び東京の大学を目指した。死に物狂いで勉強し、頭を下げて下宿の許可を乞い、四月からその大学に通っている。慣れない新生活に苦戦しながらも、充実した毎日を送っている。
そんな日々の中で、百円の自動販売機で飲み物を買う瞬間は、浩之は必ず恭子のことを思い出す。
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