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#朱里-RED EYES-(4/6)
先生から電話で呼び出しを受け、俺たちは早坂神社へ急行した。なぜかは知らないが、朱里も連れて来いとのことらしい。長い石畳を見上げて、朱里が呆然としている。
「どうかしたか?」
「……いえ。なんでも」
一段目を踏み、俺たちは石畳を登り始めた。その石畳の中腹で、夜に見かけるはずのない子供の姿を見つけた。石畳でビー玉ぶつけあって遊んでいた、青の目と緑の目が俺たちを捉える。
「よう藍、碧。」
すると、双子霊が無表情でじっと俺を――いや、朱里を観察するように見上げた。朱里の、血のように真っ赤な目を。
「…………?」
4つの無感情な眼球に見上げられる朱里は、たじろぐしかない。つまらなさそうに立ち上がった双子霊は、珍しく腑に落ちなさそうな顔をして言った。
「……なんだおまえ」
「みょうなやつがきた、なのです」
石畳の上方、境内へと逃げ去っていく。夜に不似合いな、カラコロという軽快な下駄の音と、不吉な言葉を残して。
「「サツキ様みたいな眼」」
残響は重く、不可思議だった。
「誰だよ、サツキ様って」
「いまの子供は、何?」
「縁条市子飼いの霊感担当でな。あれでも、Sランクの霊視能力を持った預言者みたいな奴らだ」
石畳を登りながら、解説する。いつもいつも俺に嫌がらせしてくる嫌な双子のことを。
「気まぐれで自分勝手で邪悪なのが最悪だけどな」
本当に、スキルだけなら最高級なのだが。その場に残った空気の残滓からサイコメトリーのように感情を読み取るあの双子は、その気になればほとんどの事件を解決出来るんじゃないか?
「……すごい子供がいるのね。世の中は広い」
「朱里のレッドオーラだって負けてねぇと思うけどな」
で、そうこうしている内に境内へとたどり着いた。物言わぬ大きな鳥居に出迎えられる。その向こう、境内には先生とアユミが待機していた。
「おかえり」
「おう、ただいま」
アユミと軽く挨拶を交わす。いつもの日常に戻ってきた気がした。
「で、なんで朱里を呼んだんです?」
ああ、と先生がうなずいて、実に優雅に淡々と述べた。
「開放されてせいせいしているところ悪いが、件の蠍とかいう殺人鬼の話を聞かせろ。お前以外、奴を知る者が誰もいない」
言われて、朱里が納得の表情。たしかに、あの殺人鬼については情報が少なすぎる。
「……俺も、武器を使わず素手で戦うスタイルだ、ってことくらいしか知りませんね」
「別に戦闘面はいいさ。さほど問題だとも思わん」
まるで興味なさそうに瞑目する先生。朱里が疑問を表明する。
「戦闘面はいいって……どうして?」
「決まってる。話に聞く限り、オレにとってはまるで脅威でないからだ。三下の手の内なんか知る価値もない」
ふん、と残酷に鼻で笑い捨てる先生。傲慢で不遜だが、先生の実力を鑑みれば当然なのかも知れない。朱里は、唯我独尊な先生の態度に純真に感心なんかしているようだった。
「さて――じゃ、概要を聞こう。つまらん話だろうがな」
ニヒルに先を促す先生。縁条市狩人の注目を浴びて、朱里が決心したように静かに語り始めるのだった。
「まず、あの男は殺人快楽者よ。それも女性を殺すのが趣味みたいね」
先生が険悪に笑い捨てる。
「予想通り、腐ってるな」
「ええ、理解し難い。そして戦闘スタイルは見ての通り、パワータイプね。腕力にものを言わせて潰しに掛かってくる」
思い返す。蠍は確かに、力で押し切るタイプだ。格闘スタイルではあるが、それほど技工が卓越しているわけでもない。
「ぱわー……?」
アユミが純真な眼をしてつぶやく。
「アユミほどじゃねーよ。大丈夫だ」
「そうなの?」
「ああ。たぶん、あいつにとってのジョーカーはアユミだろうな」
人間、特技で負けるとどうしようもない。それが力比べなんていうシンプルで覆しようのないものなら尚更だ。
「で、その怪人が、しつこくお前の怪物退治の邪魔をした……ということか」
「ええ」
ひび割れたような、重い声で、朱里がようやくそれを口にした。
「……犠牲になった人が、何人かいるわ」
その悲しそうな瞳の奥に、陰惨な記憶が見えるような気がした。
「一人じゃないのか」
「ええ、一人じゃない。何人も何人も目の前で殺された」
地面を見つめる朱里の瞳は、いまにも割れそうなガラスのようだった。視線の先に、血まみれの死体を幻視する。
「……みんなみんな、ひどい殺され方。尊厳を踏み躙るような惨たらしい暴力で死んでしまった……」
解決されていない、事件たち。犯人不明のままで捨て置かれてきた無数の殺人。蠍による被害者たちの無念を、晴らさなければならない。先生は、真っ黒な目をして朱里の横顔を見ていた。
「……因果応報はあるさ。狩人が引き起こすんだ」
先生がくるりと鞘に収められた日本刀を回し、鬼の金棒のように肩に載せた。
「やりたい放題では終わらせない。――ああ、もうその殺人鬼も終わりさ。なにせこのオレに眼をつけられちまったんだからな」
鬼のような鋭利な眼光。確かに、先生に目をつけられるなんてバケモノ側からすれば悪夢もいいとこだ。
「…………あなたは、倒せる?」
朱里が、不安そうに言った。応える先生は鼻で笑う。
「愚問だな。むしろ、負ける要素がひとつもない」
力。技。速度。呪い。何を揃えたとて、たとえすべてを人の限界まで極めたとしても、歩く不条理たる先生に勝てる気はしない。むしろ、喜々として積み上げたものをぶち壊されるような気さえする。
俺は、これまでの出来事を思い返して歯噛みする。
「田中さんが意図的に暴走させられました。俺の努力は水の泡だ」
正気を逸した田中さん。あの廃ビルを埋める呪いは、空間浸食という怖ろしい事態にまで発展してしまった。あれは魔界だ。もともと不安定だったとはいえ田中さんをあこまで追い詰めるなんて、よほど酷い言葉を掛けたに違いない。
「だからやめろって言ったんだよ、亡霊のオモリなんて」
「そう言われたって、戦うよりは話し合いの方が上策でしょう。あのまま何とかなるはずだったんだ」
それを、あの筋肉ピエロが台無しにした。許せるわけもない、あの腕力殺人鬼め。
「何か、あいつに繋がる手がかりはないんですかね」
「そういえば――」
「ん」
朱里が、思い出したように口を開く。
「いつだったか、高校の頃にクラスメイトを殺したことがある、って言っていたと思うわ。首を絞めて死なせた、って」
「……過去の事件か。年齢から逆算すれば、辿れるかもな」
ケータイを開き、情報担当にメールを飛ばしておく。
「しかしあきれたね。学生の時分から犯罪まみれとは」
先生が、いよいよ愛想が尽きたというふうに静かに言った。
「まったくッスね。つか、何なんでしょうこいつ。何が楽しいんでしょうね一体」
「どうせつまらんことさ。普通の人間には理解できないようなくだらないことに取り憑かれてるんだ。そんなのは理解する必要なんてない」
朱里が疑問を表明する。
「普通の人間には、理解できないようなこと……?」
「困っている人間を見ると、胸がすくような思いになるとかな。それが不幸であればあるほど楽しくなってしまうような人間だったとしよう。楽しくて仕方ないから次々と誰かれ構わず暴力を振るう、そして不幸に陥れて楽しくなる、そのうちに道行く人々がすべて食べ物か何かに見えるようになる――なんてのはただの仮定だがな。もしそんな人間がいたとして、意思疎通できるか? できるとしたら、そりゃ大したコミュニケーション能力だろう。言語の知らない外国に行ってもやっていける」
「……言葉が通用しない相手っつーことっすね。根本的に常識が違うんだ」
「そうだ。そういうのを“社会から外れてる”って言うんだよ。そういえば、この前テレビに詐欺師が写っていたんだが」
詐欺師。犯罪者。殺人鬼である蠍も、詐欺師もまた正常な常識の世界から外れた者達。
「密着取材みたいな番組だったな。詐欺師のその手口と言い分と、巻き込まれた被害者の悲劇をそのまま写しとったドキュメンタリーだ。……まぁ、当然誇張はあるのだろうが、あの詐欺師は思い出しただけで胸糞悪くなるな。他者を利用し踏みつけ、搾り取れば取るほど優秀であると思い込んでいる。生きてる理屈が違いすぎるんだ。人を人だと思ってもいない」
そんなの相手に、正常な人間のままで関わってしまった被害者の悲劇。傷ついた、なんて言葉では済まないだろう。異常思考の押し付けは、端的に言えば人間性の破壊だ。
恐ろしいのはオバケでなく人間なのだ。理性を失った猛獣よりも、歪んだ理性で関わってくる人間のほうがよほどたちが悪い。
「では、いいかげん気分の悪い犯罪者の駆除に掛かろうか。ひとまずは情報収集からだ。といってもメインで動くのは情報担当たちだがね。俺たち前線は、茶でも飲んで待つとしよう」
投げやりに言って、先生は本堂のほうへ向かっていった。
†
縁側で、朱里と並んで緑茶を飲んだ。ほうと寒空の下でひとつ息ついて、朱里がつぶやくように言った。
「……なんだか、不思議。一人で悩まなくてもいいなんて」
それを聞いてかなしくなってきた。この少女は、どれほど小さな世界を生きていたのか。
「誰かと話し合うだけで、不安ってとても小さくなるのね。知らなかった」
「……これからは、そうやって誰かと生きてけばいい。一人で抱えて生きる必要なんてない」
緋の目が、俺を振り返る。
「それが“普通”ってやつだ」
朱里が、ふっと柔らかく微笑む。
「普通って贅沢なのね」
「そうだな。そういう見方もある」
「あなたは普通?」
「そうとも言えるし、そうでないとも言える」
普通ではないだろう。しかし孤独ではないし、昨日までの朱里ほど追いつめられてもいない。
「……ま。なんでも誰かと話すのがいいってことだな」
「そうね。勉強になるわ」
貞淑に微笑む少女。たぶん、学校ではまじめで礼儀正しい生徒なんだと思う。
「明日からは何をするんだ」
「そうね。一人で映画でも観に行ってこようかしら」
人差し指を立てて提案する朱里。
「ああ、行って来い。俺は明日は見回りだ」
「そう。正義の味方は忙しいわね」
「大怪獣ギャドラおすすめだぜ。冷静に見るとけっこう深い」
「………」
何故か、朱里が黙りこむ。そしてなんだか物憂げに言った。
「怪獣は……苦手。どうしてか分からないけれど、昔から、大きな怪獣ってとても怖ろしいの」
「一人で戦ってからか? バケモノたちと」
「分からない。でも……たぶん、きっともっとずっと昔から苦手だったような気がする」
朱里が手を唇に当てて考え込んでいる。何か思い出せないトラウマでもあるんだろうか。しかし、件の映画の内容を思い返して俺は思った。
「……無理もない。あの映画、子供向けにしてはちと重すぎる」
「そうなの?」
特にクライマックスの全身の表皮が溶け崩れた姿は不味いだろう。子供時代にトラウマになっていたとしても致し方無い。
「……まぁいいや。好きに過ごせ、と言いたいところだが悪い……自分から聞いといてなんだが大事なことを忘れてた」
「?」
朱里は、蠍という殺人鬼に対して危険な位置にいる。何の守りもない場所に放り出すことはできない。
「すまんが、事件が解決するまでここにいてくれないか。蠍をどうにかするまでは……」
「――――」
朱里が、ぴた、と石になったように俺を見た。そのままピクリとも動かない。嫌だったんだろうか。
「いや、分かってる、何も言うな。確かに早坂神社はボロい。煤けてるし、埃っぽいし、天井見たらたまに蜘蛛の巣とか張ってるし……でも、でもな? ちょっとカビっぽいけど、つーかボロいけど、つーかボロいけど、慣れればそんなに悪い場所じゃあ――」
「…………守ってくれるの?」
「なに?」
縁側で、何故か朱里は真顔で念押すように繰り返した。
「私を、守ってくれるというの?」
切実な質問であるらしい。
「お、おう……そりゃ狩人は一般市民を守るけど」
それを聞いた途端、朱里がへんなかおをした。目を見開いて、まじまじとどこか、たぶんどこでもないどこかを見るのである。
「………………」
もしかして嬉しかったのか。普通の“守られる側”として扱ってもらえたことが。
†
「――さて、」
明るい神社の縁側に朱里を置いて、しばし暗闇の境内を歩いて石畳の手前、鳥居の足元へ向かう。ケータイを繋ぎながら。
「よう銀一。どうだい、情報収集の方は」
『やあ羽村くん。少しだけれど集まってるよ。いま僕が持ってる情報だけでよければ、聞くかい?』
縁条市狩人の情報担当の一人、雨宮銀一だった。
「ああ。どんな感じだ」
『まず、その男はピエロの仮面をかぶっているよね。その時点でなんとなくお察しではあるんだけど』
「…………」
やはり、そうか。過去にも仮面をかぶった怪人はいたのだ。正確には、仮面をかぶった怪人“たち”と言うべきだが。
『ああ、そういうことさ。蠍という名前を自称しているその男は、件の犯罪集団に席を置いていた過去があるらしい。もっとも、短期間で離反してしまったようだけど』
「離反? なんでだ?」
『犯罪者が犯罪者と気が合わないなんてのはそう珍しいことじゃないだろう。尖った人間同士だ。基本的には、攻撃的で誰とも気が合わないタイプなわけだからね』
「……まぁ、そうか。あいつが誰かと仲良くしてるなんて考えただけで吐き気がするな」
『おやおや。いつになく辛辣だねぇ』
当然。今回の事件に関しては、個人的に思うところが多い。
「で、野郎の呪いは何だ? 先生は興味ないっつってたが、俺の方はそうもいかない」
『涙ぐましいね、無能力くん。任せたまえ。しっかりとカンニングを手伝おうとも』
パラパラと、電話の向こうで資料を捲る音が聞こえる。
『ええと、だね。結論から言うと――――手、かな』
「手?」
『そう、手。』
自分の掌を見下ろす。
『……なるほど、なるほど。資料を読む限り、彼は典型的な殺人快楽者だ。それも女性を殺すことが多いね』
「ああ、それは聞いた」
『だからこそ手なんだ。分かるかい』
「ああ、まったく分からん」
『うーん、とね』
言葉を探すように、少し考えてから銀一が口にした。
『つまり、彼は殺しを楽しんでいるんだよ。楽しんでいる、分かる?』
「そりゃ分かるが」
『そして、人の嗜好は千差万別だけれど――殺すこと自体が趣味なのなら。その、殺しを最も実感できる手段で殺したいんじゃないかな』
「ああ……」
手は、もっとも神経が集まっている場所。人間の触覚を司る器官だった。
「自分の肌で、相手を殺す感触を味わうことができる。だから手か」
『そういうことさ。彼の呪いは、武器を作らず、また間接的な手段にも頼らず、自分自身の手を強化する、という形態をとって発露している』
「なるほどねぇ。で、強化ってどんなだ?」
『握力の強化と、手の硬化ってところかな。それ以外は特にないね』
言われて検討してみる。握力強化と、硬化。考える考える。俺が過去に出会ってきた呪い持ちは、未来予知とか、不可視の衝撃波を放つとか、地上を悪夢に染めて子供だけの世界を築くだとか、ありとあらゆるものを切断するだとか。それに引き換え握力強化と硬化。
「………凡だな」
『ああ、凡だ。一般人には脅威だろうが、我々狩人にとっては見掛け倒しといってもいいだろうね』
掴むとか殴るとか、所詮は人間の動作の範疇だ。それが多少レベルアップしているに過ぎない。フェアな格闘技としては強力でも、ルール無用・摂理無視が横行する呪いの中では大したものではない。本当に怖いのは、形も理屈もくそもない曖昧で大規模な幻想なのだから。
「ま。それでも、俺なら捕まったら即死だろうけどな」
『それを言えば何にだって言えるけどね。しかし、確かにそうだ。油断はできないね、決して』
「ああ。野郎が他の呪い持ちと比較して凡だっつっても、こっちは本当に何の能力も持ってないんだからな」
からからと、笑ってしまう。無能はダメだ。だって無能なんだから。
『大丈夫だよ。大丈夫だ』
「さて、どうかな。余分な自信は持たないことにしてるよ」
『負ける道理はない。なにせ、君だって狩人のはしくれなんだからね。――それも、あの高名な魔女の二人しかいない弟子の一人なんだから』
何だったろう、それは。
「でも、要は捕まらなきゃいいってことか」
『そうだね。逃げ回るのは得意だろう?』
「おう任せろ。この前も、とある山奥の図書館で不気味な動く巨像相手に…………あ、最後は捕まったんだったっけか」
『不吉なこと言うねぇ』
我ながらイケてない。しかし、日々の鍛錬を振り返れば、積み重ねてきたものが何もないわけではない。
「ま。馬鹿力を相手にするのは慣れてないわけじゃないしな」
『ああ、そうだったね。アユミちゃんがいるんだった』
「そういうこった。単純なパワーで言えば、野郎と比べても桁が一つ違う」
『秘策はあるのかい』
「そんな御大層なもんじゃねぇけどな。コツくらいはあるさ」
卑怯で姑息で小細工なやつが。
「よし、なんとなくイメージはついた。どうにかなりそうだ」
『その意気だ羽村君。是非とも頑張ってくれたまえ』
「ああ。いざという時は頼むぜ」
『頼まれよう。いつでも呼んでくれ。また続報があれば』
そして、通話を終了した。明かりのついた縁側に戻ると、朱里がぱっと表情を明るくする。
「お茶でも淹れましょうか」
「座ってろって。俺が淹れてくる」
「いいの。お世話になってるんだから、働き者を労わないと」
「いやいや、座ってろっての」
譲りあう。いやいやいや。いやいやいや。そうこうやっていると、奥の方からアユミが出てきた。
「お茶淹れたから、みんなでひといきしませんかっ」
「「……………」」
朱里と座布団を譲りあう。どうぞどうぞ。
†
「あなたは、真っ黒い目をしているわね」
縁側の隣に座る少女が、不意にそんなことを言った。俺の瞳の奥を覗き込みながら。身に覚えがないでもなかった。
「……そりゃ、色々あるからな。バケモノ共とやりあってると」
「苦しいことも、ある?」
「苦しいことばっかりさ。辛くて、痛くて、いつも挫けそうになる」
嘘ではない。決してない。本当に、狩人ってのは苦しいことばっかりだ。
「……ごめんなさい」
「ん? どうしたよ」
言いにくそうに、しおらしく俯く朱里。
「――あなたの目を、怖い、と思ってしまう。ほんのすこしだけ」
「…………」
力を持ちながらも、純真なままの少女は――もしかしたら直感してしまうのかもしれない。狩人ってのが、人殺しと同義語なんだっていう真実を。
「よせやい。俺はこんなにもフレンドリーだってのに」
空回りの笑みを振りまく。人殺しの瞳ですっからの言葉を。いまこの場に鏡があったら、きっと見るに耐えないだろう。
「……そうね。ごめんなさい、へんなことを言って」
襟元を正すように貞淑に言って、朱里がかしこまる。
「ははっ、何も謝ることはねぇよ」
なにせ、どこも間違ってないんだからな。
―――――その時、不意に、朱里の携帯電話が鳴り出した。
「…………え?」
縁側の空気が凍りつく。確かに、朱里がスカートのポケットから引っ張りだした電話が着信音を奏でている。
「おい……誰かに番号を教えたか?」
「まさか。借り物だもの」
ストラップで吊り下げられた携帯電話が、首吊死体のように揺れる。ぶらぶらと。揺れながら、無機的なのに騒がしい電子音を奏で続ける。
「………」
朱里が、ボタンに指を掛ける。俺はそれを制した。
「……なぁ。出ない方がいいんじゃねぇか?」
「え――?」
「きっと何もいいことはないだろ。その先へは進まないほうがいい」
一瞬、魂のこもっていない人形のような無表情で俺を見た。あるいはそれが朱里の真実の顔だとでも言うのか。だが、狩人の直感――いや悲惨な経験が告げている。ここから先には希望はないのだと。救われた試しなどまるでなかったのだと。なのに朱里は無垢に微笑むのだ。
「……非通知ね」
「そうだな」
「電話番号を隠したいみたい」
「ああ、そうだな」
「じゃあ――」
言うな。分かってる。分かっていても時には卑怯に逃げることも必要なんだ。何も正直に立ち向かうことばかりが正解じゃない。背負えない運命を背負わないこともまたひとつの選択なんだ。なのに。
「――私が逃げたら、そのせいで誰かが犠牲になってしまうかも」
「……………」
苦いものが、胸に広まった。まだ、朱里は笑っている。健気にも微笑を浮かべている。ちっぽけな祈りのように、残酷な運命にまっすぐ向き合っている。
「ああ、」
なら、狩人の威信に賭けて、例えどんな状況になろうと朱里を守り抜いてみせる。そのために苦しい思いをしてきたのだから。そのために鍛え上げられてきたのだから。強い決意を押し隠して、俺は朱里の言葉を穏やかに肯定する。
「そうだな。誰かに、何かあったら困るもんな」
こく、と朱里がうなずいた。
「――出てもいい?」
「ああ。スピーカーにして、俺にも聞こえるようにしてくれ」
操作方法をレクチャーする。ぴ、と鳴ってようやく電子音が鳴り止んだ――代わりに、地獄が始まった。
『ぁ…………ぁあ』
電話の向こうから聞こえてきたのは、知らない少年のうめき声だった。この時点で俺は、目の前が真っ暗になりそうになる。
「たすけて……たすけて、だれか……」
朱里の顔は、凍りついていた。蒼白に染まっている。
「……知ってる声か?」
「………………いいえ。私に、子供の知り合いはいないわ……」
『よう朱里、聞こえているんだろう? 元気かい』
――案の定、電話の向こうから陽気な殺人鬼の声が聞こえてきた。思わず激昂しそうになる。
「てめぇ――誰を攫いやがった、蠍ッ!」
『おやおや、少年もいたのか。しかし心外だなぁ、いきなり人を誘拐犯扱いとは。こっちは仲良く遊んでただけなんだ、ぞっ?』
めき、と何かを壊すような音が聞こえて、少年が、耳をつんざくような泣き声を上げる。
『ああ、ははははっ。存外いい悲鳴を上げるなぁオマエ。俺としては男殺しは好かないんだが……でもいいさ。許してやろうとも』
誰が、何を許すというのか。どこまでも身勝手に、どこまでも横暴に、殺人鬼は歌う。
『さて……もう言うまでもないと思うが。ここへ来い、朱里。でなくばもっとも苦痛を与える手段でこのガキを殺す』
歯噛みする。朱里は蒼白の顔のまま何かに耐えている。野郎は卑劣だ。当然のように、こんな下衆な手段を使って、いままで何度も何度も朱里を追い詰めてきたっていうのか。
「このクソ野郎……!」
『うるさい少年だな。しかし、そこでそうやって俺を批判するのは勝手だが――ふん、状況は何も変わらんさ。ははははははっ!』
耳障りな哄笑が、安物ケータイのスピーカーから響き渡る。その声を聞きつけて、アユミと先生も縁側へ来た。二人に無言でアイサインする。
「どこへ来い、と言うの?」
重々しく、朱里が問いを投げた。
『学校だ』
処刑宣告のように、蠍が告げた。
『今から俺が指定する5つの学校。そのうちどれかに俺と、このガキがいる』
ばきん、と骨を裂くような音が聞こえて、また子供の絶叫が響き渡る。断裂的な嗚咽に変わる。やめろと叫ぶが、蠍の笑いを誘うだけだった。……この状況じゃ、何も出来やしない。
『用意はいいか? 一度しか言わないからよく聞けよ?』
そして矢継ぎ早に告げられる学校の名前。すべて県内のものだった。
『いいか。7時まではこのガキを生かしておいてやる。それ以降は保証しない。じゃーな』
あとはもう、何を言い返す間もなく一方的に通話が切られた。縁側に残された沈黙は鋭利で、肌を突き刺すようだった。先生が低く呻く。
「……いくぞクソ弟子ども。銀一と手分けして、あのゲス野郎をいますぐぶち殺しに」
「行きましょう。もう我慢の限界だくそったれがッ!」
どこまでやりたい放題なんだ。こんな奴がいままで野放しになっていたっていうのか。こんな奴と、朱里はたったひとりで戦い続けてきたっていうのか。アユミが、深刻な目をした朱里を気遣っている。
「大丈夫? 一人で気負わないで」
「え――ええ、大丈夫よ。ありがとう」
先生と目を見合わせる。
「先生。蠍の指定してきた学校は」
「5箇所。こっちの人数を分散する意図が丸わかりだな」
くるりと鞘に収まった日本刀を掴み直し、先生は遠い蠍を睨みつけるように言った。
「業腹だが効果的だ。戦闘可能な人間だけで言えば、こっちは人数が絶望的に足りない」
「……あなたたち狩人は、何人動ける?」
朱里の問いに、アユミが答えた。
「わたし、羽村くん、先生、あと加えて銀一君くらい。美空ちゃんは、ダメだと思う」
「ああ、美空は無理だ。情報収集担当にあの殺人鬼はぶつけられない。そういえば雪音さんは?」
先生が応える。そういえば、雪音さんの姿を朝からまったく見ていなかった。
「クソ巫女は本部へ出張中だ。そもそもあいつに戦闘はできないがな」
「出来ないんですか? 元・狩人なのに」
「制約があってな。あいつは、端的に言うと――――“武器”を持てないんだよ」
「武器を持てない……?」
アユミと目を見合わせる。先生は、それ以上は話したくないようだった。
「つまり、四人ね」
ポツリと、朱里が口にした。続く言葉を予想出来ていた俺は、蠍と朱里が対峙する光景を想像して頭に血が上る。
「じゃあ、私も――」
「駄目だ! 朱里は絶対に動くなッ!」
思ったより、声が大きく響いた。
「……でも」
「駄目だ。絶対に朱里は戦わせない。様子を見るのも尾行するのも駄目だ。いいからここから動くな」
緋の目を真っ直ぐ見返し、強く突きつける。朱里は何か言いたそうだったが、先生が口を挟む。
「当然だろう。一般人を戦わせる道理はない。ましてや、戦わせてケガでもされたら一大事だ。そんなものは事件だよ」
何かを訴えるように先生を見る朱里だったが、冷たくひと睨みされて視線を落とした。
「もう、あなたは戦士であることをやめたんだよね?」
気遣うようなアユミの問いに、朱里は少し迷って頷いた。
「ええ……でも、どうしても必要なのなら……」
「いらないと言っている。そんなに働きたければ神社の見張りでもしていろ」
冷たく拒絶を突き付けて去っていく先生。あとには重苦しい静寂だけがとり残された。
†
作戦開始。時刻まで猶予はない。
「分かっているだろうが、絶対にここを動くなよ」
早坂神社の鳥居をくぐる寸前、心細そうに見送る朱里に先生が強く言った。見送られるのは俺、アユミ、先生。朱里が、吐き出すように口にする。
「………でも……私が行かなかったら」
「ダメだと言っている。罰せられたいのか」
「………」
それきり、何も言えなくなってしまう。元気づけるようにアユミが言った。
「大丈夫。わたしたちに任せて」
朱里の目が、アユミを見て、俺を見る。俺は何も言わず、ただ首を横に振った。それきり背を向ける。長い長い石畳を狩人三人で滑るように駆け下りながら、ふと音もなく流れていく川のような真っ暗闇の空を見上げる。雲が薄く、本当に、頼りなく流されていくように月が孤立していた。見下ろした縁条市の星明かりのような街並みは、地方だというのに都会みたいだ。思わず見入ってしまう。
「知ってるか。クリスマスのロマンチックなネオンはサービス残業の明かりらしいぞ」
……何が楽しいのか、そんな感傷をぶち壊しにする悪辣師匠。
「現実逃避くらいはさせて下さい」
「馬鹿弟子が。目を逸らしている暇なんてないんだよ」
まったくその通りで困る。しかし、人質を取られているという状況は本当に厄介だ。キリキリと張り詰めて、いまにも千切れてしまいそうになる。石畳を最後まで下りきると、道は左右に別れている。
「オレはこっちだ。銀一といったん合流してから行く」
「了解です。俺たちはこっちですね。では」
先生は一人。街灯が灯る夜道へと去っていった。
「さて、行くかアユミ」
「うん、急ごう」
赤髪の少女、アユミと肩を並べて夜道を疾走する。吹き飛んでいく景色の中で、アユミが言ってきた。
「ねぇ羽村くん」
「ん、どした?」
「震えてたね」
「ああ……」
確かに、震えていた。電話越しに残酷な現実に直面していた時。朱里の細い肩は、本当に歳相応でしかなくて、物悲しくて。
「たった一人で戦い続けてきたんだね」
「……ああ、そうだ。朱里は一人ぼっちで我慢し続けて来たんだ」
「想像もできないくらい真っ暗闇だと思う。わたしだって、異常現象たちと戦い続けられるのは一人じゃないお陰だと思う」
あの、強くて孤独な少女が歩んできた道のりは、この夜道のように本当に真っ暗だ。いつ沼を踏むとも知れない不安感で満ちている。そんな場所を、ただ前だけを見つめて駆け抜けるのは簡単なことではない。
「どんなに危険な状況でもひとりきり。そんなの、あっさり足を踏み外して負けちゃうに決まってる。なのに……」
「……強かったんだ。朱里は、強すぎた。どっかで投げ出してしまうことが出来ないくらいに」
いっそどこかで心が折れてしまえばよかった。否、きっと心が折れたことだってあったろう。なのに、何度でもひとりきりで立ち上がって来たんだ。
「苦しいね。本当に、苦しい」
「でも、俺はそんな朱里がすごいと思う。憧れるよ。本当にヒーローだ」
優しく微笑んで、アユミは力強く言った。
「今度は、わたしたちが朱里ちゃんのヒーローになろうね」
思わず、胸を打たれてしまう。そうだ。俺たちがやらないで誰がやる。
「………やってやるさ。絶対に」
「うん。がんばろう」
駆けながら、不意に少しだけ考えこんでしまう。
「……なぁアユミ。戦い続けることは怖いか?」
「え? うーんと」
とつとつと自問して、答えをくれた。
「もちろん怖いよ。ひとつひとつの戦いが。どんな相手だって失敗すればすぐ死んじゃうわけだし、強い相手と出くわした時なんて――目の前が真っ暗になるよね」
俺たちは知っている。その絶望を。
「どうしようもないんだよ。本当に、どうすることも出来なくなる」
何をやっても生き残れない。どんな策を講じても粉砕される。殺されるのだ。あっけなく殺される。手が触れる距離に死が迫ってきた時、人間は息すらできなくなる。
「そういうふうになった時って、たとえ運良く命を拾ったとしても、しばらくはどこかがおかしくなるよね」
隣を駆けるアユミの表情は、前髪に隠れて窺えない。そこには狩人が背負っている影がある。まるで自分を見ているようだった。
「何もない空間が怖いとか、物音すらおそろしいとか」
日陰になった場所が怖いとか、動くものを見ると緊張状態に陥って窒息しそうになるだとか。
「………うん。本当、収まるまではちょっと苦しいよね」
そう言って、無垢な笑顔を浮かべるアユミ。その笑顔にどれだけの努力が秘められているかを知る者は少ない。
「ああ………そうだよな」
狩人は死を知っている。目の前の現実として知っている。だからこそ持てる強さ、というものもあるのだが。だがそんなものは邪道だと思う。死を知っているからこその冷酷さ、なんてものは――
「羽村くん」
「え」
「いま、怖い顔してたよ」
「…………わり」
パン、と自分の頬を叩く。よくない。ここのところ事件続きで、俺も知らない間におかしくなっているのかも知れない。心の中に闇が堆積すると、いつかそれが呪いになってしまうこともある。ミイラ取りがミイラになってたんじゃ話にもなりやしない。その前にまずは目の前の殺人鬼だ。
「俺はこっちだな」
「うん、気を付けて」
近場の学校の前で別れた。閉ざされた校門の前にまっすぐ立つアユミを横目に、俺は俺の探索すべき学校へと向かう。
「くそ――厄介だな」
人数が分散されるというのは。アユミもあの学校の探索を終えたらすぐフォローに入ってくれる手はずだが、それまで俺たちは単独行動を強いられる。一人というのは本当に心細い。滑って転んだ隙を守ってくれるパートナーすらいないということなのだから。
「………こんな気分でずっとやって来たんだよな、あいつは」
肌が痺れる。錆びれた縁条市の夜闇は、真空のようだった。
†
おどろおどろしく錆びた校門が目の前に立ち塞がっていた。
「………………」
まるで侵入を拒否するかのように鎖と錠前でぐるぐる巻きにされている。森閑としていて動くものが何一つない。その、死んだように静かな学校の中で、唯一生きているように温度のある箇所を見上げた。
「……こんな時間に、学生か?」
4階の教室のひとつだけ、不自然に灯りがともされていた。まるで授業でも行っているようだ。校門は閉ざされているのに、不自然にもほどがある。腰の後ろの短刀・落葉に一度触れ、周囲が無人なことを確認してからひとおもいにフェンスを飛び越える。
「……………」
校内に着地して、感情を切り替える。冷徹非情の異常現象狩りに。闇の校舎を見据え、誰にも見咎められないようグラウンドを一気に駆け抜けた。校舎の壁までたどり着いて、姿勢を低くしたまま並んだ窓を高速で確認していく。……ひとつだけ鍵が開いていた。なるべく音を立てないようにスライドさせて、再度・周囲を確認してから無音で校舎内に降り立った。
「…………」
校舎内の空気はいっそうひやりとしている。壁に身を隠したまま、階段まで移動する。非常口の緑色の灯りがまるでホラー映画のようだった。階段にももちろん誰もいない。影に誰か立っていたような気もするが、目の錯覚だった。
「…………ん」
4階に辿り着く。目的の教室の前にたどり着いたはずだが、灯りが消えている。まるでさっきまで明るかったのが嘘のように。だが嘘ではないはずだ。しっかりとこの目で見て覚えている。
「…………………」
なら、逆に不審だ。まさか察知された? どうやって? そして、何を隠そうとしている?
ガラ――
ほんの少し、静かにドアをスライドさせる。教室内を覗き込むが、ここから見える範囲に人はいない。短刀を持った右手を差し込んで、鏡のように反射させて教室内を見回す。暗くて見えにくいが、やはり人の姿らしきものはない。――と、
「! 誰だ!」
廊下を、足音が逃げていく。息を切らしながら脇目もふらずに駆けていく背中。暗闇の廊下で、ほんの一瞬だけ月光に照らされた長い髪が見えた。
「……女……?」
逃げていったのは、見知らぬ少女の背中だった。制服ではないが、生徒だったのかも知れない。少なくとも巨体の殺人鬼でないことだけは確かだった。
「………はずれか」
もう少し探索して、次の学校へ急ごう。
†
結局、空振りだった。学校内のどこにも殺人鬼の姿はなかった。
「くそ……思ったより時間がかかるな」
学校の敷地内を網羅するのは一手間だった。こんなことをしている間にも、時間は迫っているっていうのに。
「さて――急ぐか」
いったん報告をしておこう。手近なフェンスから学校を脱出し、少し離れるまで走ってケータイを取り出す。歩きながらメールを高速で送信。アユミと、先生と、銀一。朱里には電話をしておこう。
「…………出ねぇな」
いつまでも電子音が聞こえ続けるだけ。朱里の声が聴こえることはなかった。気分が沈む。
「…………怒ってんのか? まさか……」
あの時、俺は強く怒鳴ってしまった。拒絶されたって仕方ないのかも知れない。しかし、どうやったって、朱里を戦闘の数に加えるわけにはいかないだろう。
「……………………」
まったく出ない。念のため、アユミに追加でメールを送っておく。
「さて……次の学校だな」
二件目を回らなければならない。先生かアユミ、どちらかが先行しているかも知れないが。
†
駅前でミニハット被ったオサレな女とすれ違う。一言二言情報交換しただけで、お互い特に何も言わなかった。
「遠いな」
久方ぶりに走ることをやめ、うだうだと歩行する。踏切に行き当たり、遮断機に通せんぼされて間抜けな立ちんぼさせられるはめになってしまった。この瞬間、周囲の他人たちもまた意味のない時間を過ごすのだ。それはとても滑稽だし、逆にこんな時ほど思考は捗るものなのではないか、という気もした。点滅する赤色を視界に映し、電車を待つ。警告灯。明滅する危険と安全の境界線。例えば、普通に生きている人間というのは遮断機のこちら側しか知らない。遮断機をくぐった先、豪速で駆け抜ける超質量の威力、手を触れれば肉が吹っ飛ぶようなその破壊力の現実を俺たちは知らないのだ。奇妙な話ではある。だって、3m先に地獄があるのに、それを俺たちは実感できないが故に平常心で傍観しているのだ。躓いて転んで腕脚の一本でも失えば、そんな傍観は一瞬にして肉ごと消し飛ぶのだが。
「………………」
ところで、俺の周囲で俺と同じように立ちんぼしている他人たちは、異常現象も、その威力も現実味もまるで知らない。それはとても幸せなことである。異常現象は怖いものだ。それは、狩人である俺が誰よりもよく実感して知っている。こんなもの、関わらずに生きていけるのならそれに越したことはないだろう。
俺も、朱里も遮断機だった。
「…………さて……ん?」
電車が通り過ぎ、遮断機が上がる。周囲の他人たちは歩き始めるが、俺は目を点にしたまま一歩で立ち止まる。線路の向こう側に、何故だか双子が立っていたのだ。ニマニマ笑ってオレを見ていた。不吉なことこの上ない。
「おまえら……っ」
案の定、双子は合わせ鏡のような奇妙な言葉を浴びせてきた。
「みつけた。さつじんきを」
「さつじんきをはっけんした、なのです」
そして、双子が踵を返して駆け出した。見つけた? あの筋肉ピエロを? きゃははははとけたたましい声を上げて逃げていく双子は、こっちを待つ様子なんてまるでない。
「ま、待て! おまえらっ!」
踏切の耳障りな警鐘が鳴る。急げ、急げと急かしてくる。気が付けば双子は既に二十メートルも先。すぐさま追いかけなければならない。俺は全速力で駆け出し、そのまま携帯を取り出して画面を見ずに文字を打つ。早く先生とアユミに知らせないと。
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