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#終章・観測者-noside-(3/4)
現代の朝は静かだ。恐らく昔はもっと静かだったのだろうが、現代人である私にはそんなことは知れない。とかく、朝の大気は心地よく湿っていた。まるですべてを洗い流すよう。そんな日の出と共に、“私”はようやく目を覚ます。
「………………」
声もなく、ただ目を開けた。いつになく静かな目覚めだった。目に映った空は、黒ではなく、少しずつ朝色の空の絵の具を混ぜられて、刻一刻と明るくなっていくその過程。マーブルというか、グラデーションというか。
身体が重い。まるで動く気にもならないくらい。私は一体どこの誰だろう。何があったのだろう。何も思い出せないくらいに気怠い目覚め。――けれど、ベンチのそばに見慣れた姿があって、なんとなく安堵する。銀髪。そいつが私に気付いて、容態を見るように覗きこんでくる。
「やぁ、目が覚めたかい? み――」
その瞬間に、メキリと来た。イラッとした。なぜだかまったく分からないけれど、唐突に次の言葉が不愉快な気がしたからだ。そいつの襟首を捕まえ、呆然とした顔に私はにっこり微笑みかけて告げる。
「――――み、そ、ら。」
「え……?」
「私の名前は美空よ。分かってるでしょうけど、もし他の女の名前で呼んだりしたら殺すから」
とかく、寝覚めに一発決めておく。それだけで、銀一は何かを納得したようだった。
「――なるほど。やはり、お淑やかな人は去って行ってしまったらしい」
まるで蝶のように、と何やら感傷的に朝焼けに向き直る銀一。その横顔が綺麗で、そして少しだけ腹立たしかった。
私――鷹町美空は何故だか、いまのいままで公園のベンチで眠っていたらしい。記憶が混濁している。断片的にしか覚えていない。どうしてこんな場所で眠っていたのか。そこに至る過程は曖昧なようで、知ってるようで。額に手の甲を当て、
「………ありがとう。私の意識がない時、守ってくれて」
私が言うと、銀一は虚を突かれたような顔をした。
「既視感だ。夢でも見たのかな、僕は」
「夢よ。ひきずったりせず、ちゃんと忘れなさい?」
私に取り憑いていた、他の女のことなんて。
「…………夜が終わる時、自分は生き残ってしまったんだといつも気付くんだ」
「……え?」
不意に、悲しい声で言った。とてもとても寂しそうな声だった。
「過酷なんだ。僕たちは、呪いやバケモノたちと殺し合いをしながら生きている。残酷な物語を終え、卑しくも生きながらえてしまった自分に嫌悪する。そして同じくらい、――――安堵する。」
それは、呪いがあふれるこの街で、呪いを狩りながら生きていくということ。
「いつもいつも、頭の中がグチャグチャになる。そして苦しくなる。どうして、あの人は死んでしまったんだろう。どうして、一体何の違いがあって僕は生き残ったんだろう。もしかして、僕は本当は死んでしまっていて、夢を見ているだけなんじゃないかとか。夜が終わるたび、そんな底のない不安に囚われてしまうんだ」
「……銀一……」
それは、危険なことだ。そんなのはダメだ。夜明けとともに銀一がどこかへ消えてしまいそうな気がした。怪物だらけの夜の街に、命を投げ出して一人で残ってしまうような気がした。数多の犠牲者たちに引きずられるように。
「けれど――いつも、朝が来るんだ」
「え――?」
その時、強い風が吹いた。ようやく、私は身体を起こし、周囲の色彩を目に留めた。――目を見開く。肌を撫でる、湿った大気の心地よさ。そして、この色合い。私は識っている。確かに、“彼女”の記憶の中に眠る光景が蘇ってくる。
――分かりませんか。まだ誰も起きていないような時間、村外れの森へ行けば――大気が冷たくて、青みがかっているように感じるんです。それが、私の一番好きな水色でした
“彼女”は、銀一とそれを共有できないことを悲しんでいた。現代人には決して理解されない断絶なのだと諦めていた。
けれど、違ったのだ。現代人と、過去の人間。見る世界が変わり、街の風景が変わってしまっても。
「夜を過ぎ、朝が来るたび――いつも、水色の朝の清涼さがグチャグチャになったすべてを洗い流してくれるんだ」
銀一は晴れやかに笑っていた。きっと、過去の誰かも同じような顔をして前を向いていたことだろう。今も昔も、人は何も変わっていない。
「…………そっか、うん」
安心した。そして反省した。一人で不安にさせるなんてダメだ。何のために、私という人間がここにいるのか。
「あんたは大丈夫。いつまでもそのままで、その調子でいなさい」
銀一の腕を捕まえる。強く強く、意地でもしがみつくように。がめつい鮫のように。ちっともお淑やかではない、私らしく乱暴に。
「あんたにもし何かあっても、私が力ずくで元の居場所に引き戻してあげるから――」
そして、明るく笑った。永遠に銀一の不安を取り除くように。強く強く、影をなくしてしまうくらいに強く。
「――――ね?」
その瞬間に、銀一が魂を抜かれたような顔をしたけれど。でも、そんな迷いは一瞬のこと。すぐにいつもの調子に戻って、困ったような顔をした。
「……彼女も似たようなこと言ってたけど。どうして誰も彼も、僕を妙な目で見ているんだろうね。まるで――――」
銀一は、とても悲しそうな顔をした。本当にほんの一瞬だけ。
「――――僕が、いつか悪者に……みんなの敵になってしまうみたいじゃないか」
泣きそうな顔をして、そんなこと言ったのだ。
「…………」
何を言っているのだろう。何を言っているのだろう。銀一の背後に、数多の怪人たちが見えた気がした。銀一を引きずり込もうとしている、呪いたちが、死神たちの怨嗟の渦が視えた気がした。耳に聞こえる呪わしい囁き。銀一の腕を掴んだまま、私は呆然と硬直してしまった。
「ふふ……なにそれ」
まるで意味が分からなかったから。理解できなかったから。いつもいつもみんなのことを考えている銀一が、そんな風になることは決して無いから。
「……バカ。そんなの、ないわよ。もし仮にそうなったとしても、私は味方でいてあげる。」
それが、銀一の抱える不安? だったらそんなものは私が掻き消そう。水色の朝のように。朝が来るたび、夜を振り払うためにそばに居続ける。
水色の蝶はどこかへ消えた。けれど、私はいつでも銀一の隣に立っている。
「そうだね。帰ろうか、美空。僕たちの役目は終わった」
こうして、謎めく事件は終わりを告げる。五つの物語を観測するという、物語を俯瞰する物語。その結末に影を落とすように――
「っ!」
死神が、姿を現した。足を引きずり、血だらけになっても笑っている。
「どうも。さっきはよくもやってくれましたね」
周囲の大気が凍っていく。この一帯ごと凍結させられていくようだった。
「…………あきれたね。まだ動けるのか」
「そうでもありませんよ。鉄骨に正面から突っ込んで、このザマです。けれど――」
その時、目を疑った。死神が引きずっていた脚。あらぬ方向を向いていたそれが、べきべきと音を立てて、時間を巻き戻すように繋がったのだ。それどころか、傷口まで塞がっていく。肉が蠢く音を立てて、死神の全身が再生したのだ。
「残念。ボクは、死なないんですよ」
あっというまに、完治した。あり得ない。こんなの見たことない。銀一すら硬直してしまっていた。
「……困ったね。さすがに、死なない人間を殺せる気はしない」
銀一は迷わずナイフを抜いた。眼光が刃物のようだった。ピリピリと通電するように、銀一の殺意が大気を侵食していく。それを制止したのは、死神だった。
「お待ちを」
「何……?」
「そちらの目的は完遂されてしまった。だとすれば、ボクの方にも、アナタを殺す大義名分がなくなってしまった。本当に残念極まりないですが――どうにも、この場でアナタを殺すのは良くないらしい」
やれやれ、と肩をすくめている。スポーツの話でもしているようだった。
「……驚いたな。それで、退くのか」
「ええ、今回だけは、ボクの意思や責任でこの場に立っているわけではないんですよ。有り体に言えば、そう――――今回のボクは、仕事を仰せつかった代理人だったというわけです。責任はボクではなく依頼者に振りかかる。実に実に面倒ですが――おいそれと、狩人を殺す訳にもいかない」
枷さえなければ、いますぐにでも殺してやるぞと言っている。いつまでも軽薄に笑っている。
「……本当、そっちの依頼人は誰なんだろうね」
「その疑問の代償には、命ひとつでは足りませんよ。雨宮銀一さん」
名前を知られているということは、やはり狩人の関係者なのだろうか? この疑問は晴れることはない。また、晴らす機会もないことを祈りたい。
「またいずれ、どこかで会いましょう――まぁ、こんな遠出をしてくることもなかなかないんですがね。まったく電車の旅は面倒だ。狭い箱の中で無数の獲物がいるというのに、途中で一匹を殺せば、結局電車内のすべてを殺すはめになってやりにくくなる」
吐き気がした。意味すら理解できない言動だった。
「銀一……」
「ダメだ。手を出しちゃいけない」
この場で倒すべきだと思った。けれど、銀一に制止される。葛藤する私を見て、死神は笑っていた。そして最後に呪いを残し、去って行ってしまった。
「あの記録者のせいで、この街の未来は無くなってしまうかも知れません。もしそうなれば、それはあなたがたのせいですよ。せいぜい、ボクの殺害の邪魔をしたことを、死に際に後悔することです――」
それが、氷の死神の捨て台詞だった。二度と振り返ることなく、夜を過ぎた街に向かって去っていく。背中がビルの狭間に消えた頃、私を背中にかばっていた銀一がようやく声を発した。
「…………いやだね。あんなのが野放しになってるなんて、悪夢もいいとこだ」
まったく同感だ。ああいうのは地下牢に閉じ込めておいて欲しい。
「結局、何だったのかしらね。いろいろ」
「さあ。僕らには何も分からないよ。目先のことでいっぱいいっぱいだ」
そうだった。人間は、我が事に忙しい。社会が抱える大きな問題に立ち向かっていられるのは、特権階級だけなのだ。私は地を這う一般市民。
「まぁ、大丈夫さ。何かあっても、きっと羽村君たちが何とかしてくれる」
銀一は、狩人たちに望みを託した。しかし私はその名前には同意できない。
「……無理よ。あの無能、さっきの死神と対決したら数秒で冷凍肉確定だわ。あいつ、私どころかこのまえ小学生ユーレイに完敗してたわよ」
「そんなことはないさ。彼は強いよ。きっと、僕より強い」
目を丸くした。冗談じゃない。そんなことあるはずがない。この街で二番手と名高い銀一よりも、あの使えない無能力者が強いなんて笑い話もいいとこだ。
「信じてないね、美空。嘘だと思うなら彼の行動を見ているといい。絶対に――――そう、絶対に、彼は死なずに生き残るんだ。弱いくせに、必ず最後まで生きている。それが羽村君の隠し持っている“強さ”なんだよ」
「……なにそれ。生き汚いってこと?」
「的確だ。まさに彼にぴったりの言葉だね」
実力はないが、不思議と生き残る。それがあの無能力者らしい。そんなの、いずれあっさり死んでしまうだけだろうに。そのことが少しだけ不安であり、哀れでもあると感じた。
「………………」
日が、登ってきた。もう随分と明るい。夕暮れと同じで、朝焼けも一瞬なのだと気付く。始まったと思えばすぐに終わってしまうのだ。それはきっと、物語も同じ。私たちが生きる現実は、気が付けば一瞬で走り去る。慌ただしい現実のさなかで、こうして銀一と並んで夜がすぎるのを見ていられるのもきっと一瞬。
「…………………………ん?」
美しい朝の光景。しかし、そこで気が付いてしまった。気付くべきではないことに気付いてしまった。スカートのポケットから、財布を引っ張りだす。見慣れた私の財布。私の服装は、なぜだかいつものゴシック服からかけ離れた、見たこともないようなカジュアルで清楚な水色の服装だったけれど。
ふりふりと、財布をふりかけみたいに振ってみた。銀一が、雷撃に打たれたような顔をしている。それにも構わず、私はふりふりふりと、まだ給料日を過ぎたばかりのはずの財布を振った。
「…………………………………………あれ?」
断片的な記憶。その中で、誰かがショッピングしていた。あちこちで服を買いあさっていた。見慣れない現代のきれいなお洋服を、地獄のように買いたくって、アパートに紙袋積んでいた。そんなのは幻覚に決まっているけれど、現実の私の財布は虫の息だった。
「………………財布が…………軽い……?」
というか、羽のように軽い。銀一が、美しい朝焼けを見ていた。決してこちらを見ようとはしなかった。
「き――、」
一人暮らしの私の悲鳴が、朝の縁条市に高らかに響き渡るのだった。
悪霊だ。きっと悪霊の仕業だ。
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