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エピローグ
「つばさ! 早く、早く!」
「ま、待って。武虎、そんな飛ばすなって!」
俺の足じゃあとても追いつけそうにない。芝生広場をぐんぐんと進んで行く武虎が乗っているのは、青くてピカピカの自転車だ。今日は一日かけて乗り方を教えてやろうと思っていたのに、武虎が既に自転車マスターだったのには驚いた。
「遅いぞ、つばさ! おれを抜かしてみろ!」
「無茶言うなって……!」
武虎が実は自転車に乗れるということ――実をいうと、俺はそれが嬉しかった。いつも一緒に遊ぶ友達が、何度も武虎に自転車を貸してくれていたという証拠だからだ。
「ああ、もう限界。……全力疾走なんて体育の時以来だよ」
「だらしねえなお兄ちゃん、運動不足か」
その場で膝に手をついた俺を見て、蒼汰が笑う。
「蒼汰だって、武虎に翻弄されてたじゃん」
「そりゃそうだ。大人は手を抜いてやるモンだろ」
「大人ねぇ」
「そう言えば翼くんもまだ未成年だから、お子ちゃまだな。ほら、遊んでやるからかかって来い」
ムッとして蒼汰から顔を背けると、更にからかわれて頬をつねられた。
「うーん、もうつばさはだめだ。蒼汰にいちゃん、早く!」
「おう、覚悟しろ武虎!」
スニーカーの底で芝生を蹴り、武虎めがけて駆け出す蒼汰。俺はその背中に手を振ってから、赤くなった頬を冷ますように深呼吸をした。
「翼!」
呼ばれて、背後を振り返る。
「武虎の自転車は順調か?」
「父さん! 順調どころじゃないよ。武虎の奴、びっくりするぐらい乗るの上手い」
「ありゃ。練習用にと思って小さいの買ったけど、もう少し大きくても良かったかもな」
「ありがとう、自転車買ってくれて。しばらく土日は公園で走り回る羽目になりそうだけど」
「俺も運動不足だから、丁度いいさ」
芝生の上にシートを広げ、作ってきたサンドイッチのボックスを開く。少し寒いけれど太陽が照る中、家族全員でのピクニックなんて初めてだ。
ちなみにあの夜蒼汰から貰った二万円は、今夜四人で食事に行くための費用となる。俺と蒼汰の間で「返す」「返さないでいい」の押し問答が三十分続いた後、根負けした蒼汰がそれを提案したのだ。
「おーい、武虎。転ぶなよ……って、転んだ!」
バランスを崩した武虎が自転車から落ち、コロコロと芝生の上を転がって行く。メットとサポーターを装着しているとはいえ、慌てた俺は咄嗟に駆け寄ろうとしたが――
「転んでもあいつなら大丈夫だ」
父さんが呑気に言って、「ほら」と前方を指さした。
蒼汰に抱き上げられた武虎は声をあげて笑っている。その顔についた芝を払ってやりながら、蒼汰もまた笑っていた。
「おーい、昼飯にしよ。武虎、蒼汰!」
肩に武虎を担いだ蒼汰が俺の声に手をあげ、片手で自転車を押しながら軽い足取りで戻ってくる。
「武虎も本気で取っ組み合いができるような、良い遊び相手ができたな」
「父さん! つばさのサンドイッチ、おれも手伝ったんだよ!」
「おお、それは楽しみだ」
シートに座った父さんの膝に武虎が座り、その正面に俺と蒼汰が腰を下ろす。傍から見れば男ばかりの、だけど立派な四人家族。
「腹減った!」
「武虎、ちゃんと手拭いて。まだ土が付いてる」
ウェットシートで武虎の手を拭く傍らで、父さんが言った。
「蒼汰、英語で『いただきます』は何て言うんだ?」
「Let’s eat」
「レッツイート!」
武虎が叫び、俺達も手を合わせた。
「んまい!」
「ああっ。タマゴがぼろぼろ零れてるぞ、武虎っ」
「父さんも口にマヨネーズ付いてるよ」
公園のあちこちで、シートを広げた家族が土曜のひと時を楽しんでいる。誰も彼もが幸せそうに笑っているのを見た俺は、うんと伸びをしながら晴れ渡った冬の空を仰いだ。
「翼、食い終わったら全員で鬼ごっこだってよ。覚悟しとけ」
「ええっ、本気で言ってんの……」
武虎も、蒼汰も。俺も。
「つばさも口にパン付いてる!」
――みんな一人じゃない。だから大丈夫。
「うわ、本当だ。ていうか蒼汰もだぞ」
「えっ、マジか」
「しょうもない兄貴達だな!」
俺は空からこちらを見ているであろう姉貴に祈り、それから、隣で恥ずかしそうに口を拭う蒼汰の肩に寄りかかって笑った。涙が出るほど、腹が捩れるほど。あの空へと届くように、声高らかに笑い続けた。
終
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