第1話 沢野家の長男たち

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第1話 沢野家の長男たち

 十月も半ばに入り、吹く風は冷たさと共に仄かな冬の匂いを運んできている。先月までの残暑が嘘のように感じられる午後六時の空の下──俺は自転車をかっ飛ばしながら、自宅から約900メートル離れた場所にある「教室」を目指していた。  久し振りに寝坊した。寝坊が原因の遅刻なんて高校の頃以来だ。教室は五時半で終わるから、もう三十分も待たせていることになる。もちろん目覚まし用のアラームはかけていたし、教室からの着信もあった。だけど日頃の疲れもあって爆睡していた俺はそれに気付かず、ものの見事に寝坊してしまった。  子供達がいなくなった児童公園の中央を自転車で突っ切り、線路沿いの道路を直進する。二つ目の角で右に折れ、次の角を今度は左へと曲がる。すると前方に明かりの点いた教室の看板が見えてきて、そこでようやく俺は自転車の速度を緩めた。  こども英会話教室・トイグラウンド──。  近場の電信柱に自転車をたてかけ、駆け足で教室の入口を目指す。やっとの思いでドアに手をかけた時には、心臓が破れそうなほど脈打っていた。 「遅れてすみません。沢野武虎(たけとら)、迎えに来ましたっ」  狭い教室にいたのは安堵の笑みを浮かべた英会話の講師と、不貞腐れた表情の小学一年生だ。 「つばさ、遅い! 何やってたんだよ」 「ごめん、寝坊した。本当にごめん」  もうすぐ七歳の誕生日を迎える武虎が、眉間に皺を寄せて俺を睨み付けている。いつでも帰れるようにと鞄を肩にかけて、夏に買ってやったお気に入りのキャップも被ったまま、ずっと俺を待っていたのだ。  迎えに来ないなんて初めてだったから、この三十分、さぞ心細かったことだろう。 「すっかり寝ちゃってたんだ。だから急いで来た」 「もう!」 正面のホワイトボード横にある大型テレビでは、子供向けのアニメ映画が流れていた。講師が武虎の気を紛らわそうと、わざわざ流してくれていたらしい。 「すみません、ご迷惑おかけしました」  腰に武虎のパンチを何発も喰らいながら、講師に向かって深く頭を下げる。 「大丈夫ですよ、僕も武虎と話せて楽しかったですし」  そう言って控えめに笑う男性講師は、俺よりも三つ四つ年上かというほどの若い男だった。その笑顔を見てハタと気付く。武虎を通わせ始めた時の講師は、確か飯塚先生という塾長の中年女性だったはずだ。 「あれ。飯塚先生じゃなくなったんでしょうか?」  頭をかきながら問うと、武虎が俺の尻にパンチを入れながら「前、言ったじゃん!」と叫んだ。 「そ、そうだっけ……」 「そうなんですよ。僕はもともと月・水・木の教室を担当していたんですけど、先々週から金曜日も受け持つことになったんです。ご挨拶がまだでしたよね、すみません」  全く知らなかった。いつもは教室の外で武虎を待っているから、講師の顔までちゃんと見ていなかったのだ。  彼の首から下がったネームプレートには、ローマ字で「SOUTA」と書かれている。
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