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第一章 記憶の檻
夜、雨が降りしきり星はおろか月の光も届かない闇の中、私はランタンに火を点して街中を歩いていた。
街が寝静まる雨の夜に、こうやって修道院を抜け出すのももう一度や二度ではない。私はあの日から何度も何度も、自分に課せられた勤めから解放されるこういった夜に、街外れにある草原を訪れていた。
傘も差さずに濡れて、体に纏わり付く重い服の感触は、陽が出ているときならば不快に感じるのに、この草原を訪れる時にはなぜだか安らぎを感じるのだ。
冷たい雨で体温が奪われる。それなのに心は熱に浮かされたようだった。
街外れの草原には大きな樹が一本、堂々と立っている。そしてその樹の根元には、そこにあるにはあまりにも不自然な、岩とも言えるような大きな石が置かれていた。
この石は元々この場所にあったのではない。わざわざ他の町だか村だかから運んできてここに据えた。この石は墓標なのだ。
闇と雨で閉ざされた中をランタンで照らし、ゆっくりと石に近づく。それから、凍える手に持っていた名も知らぬ花をそこに供えた。
アマリヤさんがここに葬られてからもうどれだけ経っただろうか。私に天文学を教え、導いてくれた彼がいなくなって、未だに私はそのことに慣れることができないでいた。
私と一緒に天体観察をしていて、ああ、あの時のことは昨日のことのように思い出せる。長年天文の研究をしているアマリヤさんですら初めて見たと言うほどのあの圧倒的な流星群。夜空を流れる沢山の星を、閉ざされた修道院の庭からではなく開けたところで見たいと請われて、私は港へと案内した。私はあの時のことを忘れられない。流れる星を追って走って行った彼が、星と月の光を受けて輝きながら暗い海の底へと沈んだあの瞬間を。
海の底へと姿を消してから数日後にアマリヤさんは再び姿を現した。港ではなく、そこから少し離れた場所にある波打ち際で見つかったのだ。その時にはもう、以前の面影はなかった。体は膨れ上がり、所々魚に囓られ、着ていた修道服と変わり果ててもなお鮮やかさを失わない白銀の髪で、かろうじてそれと判別できるのみだった。
私はあの時のこと、あの姿を忘れることなど出来ない。そして、ずっと私に向けていてくれていた人懐っこい笑顔も、忘れられようはずもなかった。
それなのに、それなのにだ。修道院で暮らす他の皆はアマリヤさんという人など元々いなかったと言わんばかりに、彼のことを記憶の中から消し去っているかのように、誰も話で触れることはしない。それはアマリヤさんが自ら海に飛び込んで自死したと判断し、それを穢れとみなして触れないようにしているのか、そもそもそこまでアマリヤさんと言う人間に興味が無かっただけなのかはわからない。わからないけれども、納得など出来るはずはなかった。
「アマリヤさん、周りのみんなは、まるであなたのことなど忘れてしまったかのようです」
そう呟いて、濡れてランタンの光を冷たく照り返す石を撫でる。何も返事は無い。返事が返ってきたらと思うことは何度もあるけれども、それはあり得ないことだというのもわかる。何度か石を撫でて、それから地面に膝を付いて屈み、石に口づけた。自死したとされたアマリヤさんは神様の元へはいけない。それを悲しいことだと思った人もいたけれども、私はそれはそれで良いと思っている。だって神様の元に行けないのであれば、こうしている限りアマリヤさんを私ひとりのものにできるのだ。
私は神様を信奉しているけれども、神様の元へ行くつもりはない。いつかアマリヤさんのいる所へと行くつもりだ。たとえそれが地獄であったとしても。
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