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全2/13エピソード・連載中
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 紙コップに口をつけて、キャラメルラテを飲む。ひとくち、ふたくちとゆっくり飲み下すと、温かさと甘さが胸の辺りから全身まで行き渡るような気がした。  あのあと自分でも涙が止められなくなって立ち尽くしてしまった環のせいで、レジは異様な空気に包まれた。自分がおかしな奴認定されているのはわかったのだが、なんと説明したらいいものかわからずにいるうちに責任者らしき人物が出てきて、そっとレジの列から引き離し、店の隅へ連れてきてくれた。コーヒーやアイスの自販機と簡易なベンチが置いてあり、店頭に入った鯛焼きなどを食べられるちょっとしたスペースだ。 「大丈夫です。ちょっと、具合が」  取り敢えず通じそうな理由をひねりだして口にする。責任者としては流れの止まってしまったレジのほうが大事だろう。環を気遣いつつもそこに座らせると、レジへと去って行った。  当然バイト君もそうだろうと思っていたのに、彼は残ってラテまで手渡してくれたのだ。錯乱したお客様に対するマニュアルにそのように記してあるのだとしても、有り難かった。 「……大丈夫、すか」 「うん、大丈夫。あの、別におかしな病気とかではないので、はい」  大の大人の男がスーパーのレジでぼろぼろ泣いてしまったのだ。だいぶだいじょばないと思うが、取り敢えず店側には何も問題はないのだと伝えなければならない。 「あの俺、最近仕事があんまりうまくいってなくて。今日は色々ついてなくて、疲れちゃってたから、わざわざ待って一割引にしてくれるんだーって思ったら、なんかこう、ぶわっと」  仮にも表現者とも思えない語彙で必死に「ぶわっと」とくり返すと、バイト君は無造作に伸びた前髪の下の目をぱちくりとさせた。 「そんなことで?」  ――ですよねー。 「店に問題はない」ことは伝えられたとしても、己に問題がないことまでは証明するのが難しい。 「あの、正直そういうことやってくれるタイプに見えなかったので、驚きと喜びで余計にどーんと来てしまったと言いますか。ギャップ、って言いますか」 「タイムセールは、忘れると社長に怒られるんで……」  バイト君は、感情の掴みにくい声音でそれだけぼそっと告げた。 「そうですよね。勝手に感動したり申し訳なく思ったり、こっちの情緒が大幅に不安なだけなのはわかってます」 「……つまり、一割引で感動して泣いちゃった、ってことでいいですか?」  それはあまりに雑なまとめな気もしたが、バイトとはいえなにかイレギュラーなことが起きたときには報告書でも書かされるのかもしれない。ならば簡単なほうがいいだろう。恋と仕事の難しさに悩んでいた心の隙間に一割引がぴったり入り込んで――なんて、万人向けの説明とは言い難い。頷くと、バイト君はなにか考え込んでいる様子だった。マニュアル外の仕事をさせて申し訳ない。なにしろ接客業は空前の人手不足だという。「変な客が来たから嫌になってやめた」では店に対してあまりに申し訳が立たなかった。  これだけの体格のいい大学生ふうの青年だ。もっと割のいいバイトがありそうなものなのにスーパーのレジに入っているのは、なにか彼なりの事情があるのではないだろうか。  もしかしたら掛け持ちしてて、夜はもっと実入りのいい建築現場とかかもしれないし。 だとしたら、ひとつめのバイトで疲弊させてしまってはますますいけない。涙も止まった今、いち早く彼を解放してあげなければ。 「じゃあ俺はこれで」と椅子から腰を上げかけて気がついた。 「あ、これのお金」 「いいですよ、それくらい」  思いのほか軽くさえぎるから、スイッチが入ってしまった。 財布から取り出した小銭を強引に握らせる。 「それくらいじゃないよ。ここ、夜でも時給千円だよね。ってことはこのラテは一時間労働の十分の一以上でしょ? 一時間立ちっぱなしでレジ打って、その十分の一使ってこれ一杯やっと買えるんだよ。若いから、体力に任せてまた稼げばいいやって思ってるのかも知れないけど、若いならなおさら時間は貴重だよ。そんなに簡単に君の時間を誰かに明け渡しちゃだめだ。ちゃんと考えて使わなきゃ」  学生時代、このバイトをする時間があったら、デッサンがどれだけできることか……とつらかった。ストーリーの勉強だって。本も読めるし、話題になってるドラマだって観られる。それだけの時間をつらい労働に差し出すことで人は金銭を得るのだ。「それくらい」なんて言ってしまっていいものではないだろう。  俺なんか、もっともっと時間が欲しいと思ってるのに。そしたらもっとキャラ造りもストーリーも勉強して――  我に返ったときには、バイト君はただ目を見開いて立ち尽くしていた。その姿に急速に現実が戻ってくる。  うわ。  俺、迷惑かけて、良くしてもらった上に説教しちゃったよ。偉そうに。 「あ、あの……すみませんでした!!!!」  いつのまにかちゃんとレジ袋に収められていた買ったものを引っ掴んで頭を下げる。環は、文字通り逃げるようにその場をあとにした。    結局その夜は恥ずかしさのあまりベッドの中でじたばたしてしまってなかなか寝つけず、起きたのは翌日の昼だった。その時間になると、もうみっちりと脳味噌を使う仕事は出来ない性分なので、小さなカットの仕事を始める。漫画にはダメ出しをくらったものの、他雑誌のこういう仕事がひょっともらえたりするから、憂鬱でもたまには編集部に顔を出す。それが環精一杯の営業活動だった。  ファッション誌の占いコーナーのカットは小さいとはいえ十二種類とその月メインの星座を大きく扱ったもの、計十三点を描かねばならない。バランスや色合いを試行錯誤しながらやっているとまた一晩が経過して、スーパーで泣いてしまった翌々日、環は冷蔵庫の前で呆然としていた。 「で、電源入ってない……なんでだ」  脳裏に浮かぶ故障の文字を必死で追い払いながらドアを静かにしめ、コンセントを入れ直してみたり「頑張れ、頑張れ」と呟きながら撫でさすってみたりしたのだが、結局冷蔵庫は帰らぬ人となった。最初に上京したときから使っているものなので、約十年、むしろよく頑張ってくれたと言うべきなのだが、今すぐ新調するような余裕はもちろんない。日頃まめに自炊をするほうではなかったのでダメージが少ないといえば少ないが、今まで以上に頻繁に買い物に出なければならないだろう。  ってなると、やっぱりこうなるよなあ……  しばらく悩んだあと、環の姿はスーパーの前にあった。  あんな失態をさらしたあとだ。本当ならもうすこしほとぼりが冷めるまで顔を出したくはなかったのだが、いずれ冷蔵庫も新調しなければならないことを考えると、やはりコンビニよりスーパーに足が向く。  とにもかくにも明日の朝までの分の食糧をかごに入れ、レジに並ぶ。一応花粉症を装ってマスクを装着するなどの小細工をしてきたのだが、あのバイト君の姿はないようだった。  ――いないんだ。  そうなるともうレジはどこでもいい。安堵して一番手近なところに並ぶ。前に並んでいた客の買い物量もたいしたことはなく、順調に進んでいた流れが環の手前で不意に止まった。まさか、と思っているとそのまさかで、ベテランらしき女性に代わってレジに入ったのは、あのバイト君だ。  ――ああ「持ってない」っていうか「持ってる」っていうか……  相変わらずの自分っぷりがいっそ清々しい。バイト君も当然こちらの姿に気がついたようで、空気が微妙に強ばるのを感じた。  張り詰めた空気がいたたまれなくて、環はマスクをずらすとぼそりと告げた。 「あの、この間は、すみませんでした」 「――いえ、俺も」  環から話しかけるとは思っていなかったのか、バイト君は驚いたように目をしばたいた。その態度にも声音にも、恐れていたような棘はない。環のほうでも緊張がほぐれて、俯いていた顔を上げるとき、エプロンの胸の名札が目に入った。昶、と書いてある。 「あきら、くん?」  スーパーで下の名前記載とは珍しいが、店の方針だろうか。そう思いながら何気なく読み上げると、バイト君――昶はまたしても驚いたような顔をしていた。 「一回でちゃんと読んだ人、初めてです」 「ああ、俺、おたくだから」  難読漢字の類いは得意だ。と考えたところで我に返った。しまった。しょうことの会話ならこれで通じるだろうが――案の定昶はきゅっと目を眇め、困惑の表情を浮かべていた。 「あの、俺、漫画家で」  だからいい人名はストックしとくし――なんて、これも一般の人には結びつかない発想か。重ねて説明しようとしたとき、背後からただならぬ圧を感じた。 見ればいつのまにかレジには列が出来、片手で大量の荷物、片手で今にも逃走しそうな子供をなんとか押さえつけているお母様方が 「さっさと進まなければおまえを末代まで呪う」 という視線を向けている。 またしてももたもたしているうちに戦争の時間に突入してしまったらしい。環は慌てて代金を支払い、おつりを受け取ると、射出されるように列から離れた。客はどしどし押し寄せて、昶はもうこっちを見てもいない。詫びを入れられたことはひとまず良かったが、今度は突然職業をアピールするただただ変な人になってしまった。  うう……  すっきりとしない苦い思いを噛みしめながらレシートとおつりをもそもそ財布にしまう。  おつりを渡すときかすかに触れた昶の手は、大きかった。
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