3
全3/13エピソード・連載中
3/13

3

 さすがの環にだって学習能力というものはある。翌日は昼過ぎに買い物に行った。バイトにはシフトというものがあって、必ずしも昶がいるわけではないと思い至ったのは現場についてからだったのだが。  ところが珍しく環の考えはいい方向に外れて、昶はレジに入っていた。春休み中みっちりバイトを入れているのかもしれない。やっぱり苦学生なのかなと思いながらレジに並ぶと、今度は昶がぼそっと呟いた。 「漫画家さん」 「え、あ、覚えててくれたんだ」 「そりゃ、あんな謎残して去られたら」  そう言って笑う。  へえ、と思った。初めはただただ図体がでかくて無愛想な奴だと思っていたのだが、そんな顔をすると柔らかく目が細くなる。ぼさぼさとした頭も心なしか今日は整えられているようだ。こうして見ると、毛艶のいいレトリバーのような賢さのある愛嬌を感じる。いつも見かけるのは夕方だったから、疲れた姿だったのかもしれない。  今日は背後に他の客もおらず「俺いつも引きが下手って言われるんだけどね」と混ぜ返すと、昶はまた「?」と言う顔をする。しまった。また漫画家言語で話してしまった。どう説明したら、と焦っているうちに、昶がぽそりと訊ねた。 「少し、お時間ありますか」 「え? うん」  面くらいはしたものの、そこのところは融通が利く自営業だ。応じると昶は続けて告げた。 「俺、あとちょっとで休憩時間なんで、この間のとこで待っててもらっていいですか?」    エプロンを外しあのスペースにやってきた昶は「この間」と口火を切った。 「すみませんでした」  やけにいい姿勢で頭を下げてくる。 「いやいや、むしろこっちこそお騒がせした上にいっちょ前に説教みたいなことしちゃって……すみませんでした。時間無駄にするなとか言って、俺の相手が一番無駄だって話だよね」 「無駄じゃなかったです。俺、バイトはしてるけど、お金とか時間とか、身に染みてわかってなかったなって」 「いや、俺も実はそんなに――恥ずかしいな」  時間、時間というけれど、自分だってまったく無駄にしないで生きてきたわけではない。実際七年も燻ってこれといった結果を出せているわけでもないのだ。 「俺、お金のこととか普段から自分も悩んでるから、つい人様のことにまで口出ししてごめんなさい」  口にしてみると、あらためてあれは半ば八つ当たりだったような気がしてきた。だが昶はそれを少しも気にする様子もなく、さらに言うのだ。 「俺、世界が狭いんで、言ってもらえて良かったんです。本当に」 「でもバイトいっぱい入ってるっぽいし、充分偉くない?」  つい数日前まで「なんか感じ悪い」と思っていたこともすっかり忘れ、環は言った。 「でも、――」 「ああ、俺は吉良環」  言いよどむ昶に、そういえば名乗っていなかったことを思い出して告げると、昶は「たまきさん」と、呟いた。注意深く一度手触りを確かめるようなその素振りが、なんだか可愛いなどと思ってしまった。俺も専門の頃は周りにこんなふうに見えてたのかな、と思う。 「環さんみたいに、ちゃんとお仕事してるわけじゃないし」 「っても俺はきちっとお勤めしてるわけじゃなくて漫画家だし……」  ちゃんとなんて言われると面はゆいと思いながらそう告げて、次なる衝撃に環は備えた。職業の話をするとき、必ずくり出される「あの質問」にだ。  だが、いくら待っても昶はその言葉を口にしなかった。 「――「へー、ジャンプとか?」って言わないの!?」  業界のことをよく知らない人間からすると「漫画家=ジャンプ」というのはごく自然な発想らしく、今まで出会った数少ない恋人や友だち、家族親類は必ずそう訊いてきた。  彼らにはわからないのだ。漫画にも色々あるということが。中でもジャンプ作家は環からすれば殿上人。誰でもそこで描けると思ってもらっちゃあ困るのである。  もちろんBLを愛しBLを描くことを自ら選んだのだからジャンルによる貴賤などないとは思っているが、認知度や収入面を考えるとやはり忸怩たるものはあって、微妙な気分になるのが常だった。だからできれば無神経な発言は謹んでもらいたいが、そんなところまで一般人が忖度してくれるわけもない。面倒くさいので環は家族親類には自分のことを「なんかイラストレーター」と言ってあった。両親は最近生まれた兄の子供に夢中で、次男の環が都会でなんの仕事をしていようが詮索してこないのは幸いだ。  ぐぬぬ、と複雑な感情を噛みしめる環に対し、昶の反応は拍子抜けするほど淡泊なものだ。 「あ……俺、今まであんまり漫画読んだことなくて、よくわかんないっていうか……」 「ジャンプも!?」  若者があまり漫画を読まなくなっているとはよく聞く話だが、実際に読まないと断言する若者と対峙するのは初めてで、思わず声を出してしまう。ちなみにBLに限らず漫画ならなんでも好きな環は未だに毎週買っている。なんなら早売りを求めて街を彷徨う。  環の剣幕に圧倒されたのか、昶は困ったように眉尻を下げた。 「漫画に限らず、映画とか、ゲームとか、音楽も。流行ってる娯楽って全然知らなくて」  へえ、珍しい。うっかりそんな言葉が口をついて出る直前で思いとどまれたのは、環にしては上出来だった。  俺のばか。さっきは謙遜してたけど、昶くんはやっぱり苦学生なんだよ。バイトいっぱいしてたら漫画なんか読むお金も時間もないの当たり前だよ……!  曲がりなりにも美術系の専門学校に行ったから、生活が楽でなくとも漫画は身の回りにあるのが当たり前だった。同級生で貸し合ったりできたし、なんなら学校に置いてあったりもする。あれは恵まれた環境だったのだ。 「ほんとに俺世間知らずで、これからいっぱい勉強しなきゃと思ってたところなんで。だから漫画家さんなんて全然違う世界の人と知り合えて、ちょっと……嬉しい」  はにかみながら告げられる言葉は、独り言のようだった。独り言のようだったからこそ、本心が滲出したもののように思える。環はじんわりと頬が熱を持つのを感じた。  自分と関わって嬉しいなんてそんなこと面と向かって言われたの、俺、初めて。
3/13