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「〈短編一本エロ二回〉」 「……」 「なによ、じゃあ〈玄関開けたら二秒でセックス〉?」 「セ……ッ、しょうこさん!」  なんちゅう単語をファミレスで。環は慌てて向かいに座る友を諫めると、辺りをうかがった。一番忙しい昼時を過ぎた店内に客はまばらだ。市内にふたつある駅のちょうど真ん中辺りという、ややへんぴな場所にあるそこは、たまにゆっくり友だちに愚痴を聞いてもらうには最適な場所といえる。それにしても。  しょうこはドリンクバーに最近加わった青汁を「もうちょいストロングでもいいのに」と評しながら、眉間に皺を寄せた。 「あんたが〈もっと読んでもらえる極意があったら教えて〉って言うからでしょ。もっともあたしは小説だから、漫画とはまた違うかも知れないけど。ネーム、見ていい?」  つい一時間ほど前に同じ動きをしたなあと思いながら当該のファイルを開いてタブレットを手渡す。じっくりと画面をスクロールしていたしょうこはやがて、きっぱりと言い放った。 「地味」 「う」  これも一時間前の編集者の反応と一緒だ。 「冒頭がたるい。一ページ目で事件が始まってない」 「だ、だって、そこは出会いのシーンだから重要で……」 「結婚式の馴れ初めビデオじゃないんだから、そんなとこはすっ飛ばしていいのよ! それが構成力ってもんでしょ。あんた、絵はずば抜けてうまいんだから、さっさとエロに持ち込みなさい! なに勿体ないことしてんの。この才能の無駄使いめ」 「凄い。一字一句編集さんと一緒だ……」 「感心してる場合か!」  漫画だったらこう描くみたいな般若の表情をして、しょうこは青汁の残りをひと息に飲み干した。 「――なに飲む!?」 「え、あ、じゃあカフェラテ」  テ、まで聞き終わらないうちにしょうこはテーブルを立ち、さっさとドリンクバーへと向かっていく。過去に環がカウンターの前に陣取っている中年サラリーマンに遠慮して飲み物が取れず十分経過ということがあり、以来ドリンクを取りに行く役目はしょうこが買って出てくれるようになった。「時間は有限なのよ。ちんたらやってられっかっつーの」が口癖の彼女は、なにかにつけてパワフルな頼れる同期デビューだった。と、いっても実績は彼女のほうが圧倒的に上だ。  環――吉良環はたまき綺羅というペンネームで活動する、BL漫画家だ。  九州の田舎から上京して美術系の専門学校在学中に受賞してデビュー、以来細々と描き続けて今年で七年目になる。デビュー時こそゲイの男性作家で絵が繊細ということで話題になったものの、これといった代表作はまだ、ない。もっぱら単発のウェブ掲載と小説の表紙挿絵でなんとか食いつなぐ日々。今日は久し振りのテーマアンソロジーの企画でネームが通らなかった愚痴をしょうこに聞いてもらっていたところだった。  彼女、あららぎしょうことは出版社の受賞パーティーで出会った。漫画と同時に発表になった小説部門の受賞者で、偶然にも家が近いことがわかって意気投合、こうしてお互いの家の中間地点にあるファミレスでネタの相談や愚痴を言い合ったりする仲だ。ちなみに受賞時しょうこはすでに一児の母で、知り合ってからさらにひとり産んでいる。年齢は十ほど上だが、まったく違和感なく付き合えているのは、彼女のさばさばしたパワフルな性格によるところが大きい。それは物作りの姿勢や内容にも現れて、しょうこは続々と意欲的に新作を発表していた。主にセレブな世界を舞台にした大胆で華々しい作風には固定ファンもつき、雑誌の表紙にも大きめの文字で名前が載る。 「ともかく、絵がうまい人の売りはエロじゃないの? というか、私はそれが嬉しい。読者の喜ぶもの見せてよ。だって今回のテーマ〈躯から始まるドラマティックラヴ〉でしょ。どかんと大胆なエロで掴んでおいて、センシティヴな部分はそのあと見せればいいじゃないの。究極な話、最終的に読者が面白かったーって思ってくれればなんでもいいんだから」  ドリンクを持って戻ってきたしょうこの言い分はわかる。だがわかると出来るは大違いだ。 「だから躯から始まる大胆な恋愛とかそもそも発想できないんだって! ……経験、ないもん」 「あたしだって別に村が焼かれて奴隷として売られた先が後宮だったことはないわよ」  自身最大のヒット作の内容を引き合いに出すしょうこに、環は唸った。 「そういうことじゃなくて!」 「あー、はいはい、ごめん今のはお約束として言いたかっただけ。まあ家族観とか恋愛観は、いくらキャラは作者と別物つっても考え方が出るもんよね」  ちなみにしょうこの話はその後一夜を共にした王子に気に入られて奴隷からめきめき頭角を現すストーリーだ。ついでにいうと褐色奴隷攻めで、背中には王子の所有であることを示す黒い翼の刺青を入れられている。 「うん……」  実家のある田舎はお世辞にもゲイに理解のある地ではなく、高校卒業までとにかく己の性的嗜好を隠そうと注意深く過ごしていたからだろうか。気がつけばすっかり慎重な性格になった。いや、慎重というのはずいぶんいい解釈をした場合の言葉で、要するにいい歳をして引っ込み思案、優柔不断、なにをするにも怯えて迷っている間に初動が遅れてしまって損をする。  そんな性格だからたまにつき合う相手が出来ても、こんなこと言ったら嫌われるかも、やきもちやいたら束縛と取られるかも、と悩んでいるうちに相手がもっと積極的な相手と浮気してしまい破局、というパターンがほとんどだった。  ――〈玄関開けたら二秒でセックス〉って、どんな精神状態だよ!?  わからない以上薄っぺらくなってしまいそうで描けないと思ってしまうのだった。  しょうこがコーヒーカップをソーサーに戻す、かちゃ、という音で環は我返った。 「まあ、どうしても経験しなきゃ描けない派だってなら、経験するしかないわね。あたしだってロケハン行くと最初に考えてたよりいい描写浮かぶし。よし、まずは大胆な恋愛をしてみよう」 「してみようって、そんな簡単に」  彼女がお子たちと観ているであろう教育番組とはわけが違うのだが。 「アプリだって今はたくさんあるんでしょ」  当事者並みに詳しいのは、流石BL作家というべきか。 「だから、そういうのがもうなんか怖いんだって……!」 「怖いくらいなによ! 面白さのためなら悪魔に魂も売りなさい!」  エキサイトしたしょうこは、ばん、とテーブルを叩く。ちなみに「面白さのためなら悪魔に魂も売る」も彼女の口癖だ。悪魔に魂も売る彼女は、テーブルを叩いた拍子、かたわらに置いてあったスマホの時刻表示に目を留めた。 「おっともうこんな時間じゃねーの。行かなきゃ」  下の子の通う保育園へのお迎えだ。環は慌ててバッグをまさぐって包みを取り出す。 「あの、これ。編集部の帰りに売ってて……アレルギー物質不使用だって」 「ん?」 「子供ちゃんたちのおやつ選ぶのも大変だって、前言ってたから」  しょうこの子のひとりは、小麦アレルギーだった。小さい子供のおやつは栄養補助的な意味もあるから出してやりたいが、作るにしても買うにしてもアレルギーがあると手間は格段に跳ね上がる、と以前苦悩していたのを覚えていたのだ。お迎え前の貴重な時間に愚痴につき合わせてしまう、せめてもの罪滅ぼしだった。 「ありがと。……ねえ、あたし口が悪いからついずけずけ言っちゃうけど、あんたには本当に売れて欲しいと思ってるのよ。あんたが表紙担当してくれた本は売れ行きもいいし、才能あると思ってる」 「うん。ありがとう」  こうして愚痴を聞いてくれる相手がいるのが、自分にとってどんなに心強いことか。いくら多様性が認められる世の中になってきたとはいえ、偏見なくつき合ってくれ、そのうえ同じ業界で同じ市内住みなんて奇跡、めったに起こらない。  環は精一杯の笑顔で応じてタブレットをバッグにしまう。大胆な恋愛をして、大胆な作品――は無理としても、彼女の期待に応えるためにも、自分の実績のためにも、本当にそろそろ代表作と言えるものを世に送り出さなければ。  ――とは言ってもなあ。  電動機付き自転車(前後に子供用座席搭載)を力強くこぎ出していくしょうこを見送ると、さっそく弱気の虫が顔を出してしまった。  大胆な恋愛、大胆な話、と考えながら市内を循環するコミュニティバスを待つ。しばらくしてやってきた小さなバスはほぼ満員だった。いやでもギリひとりくらいいけるかこれ――と乗り込もうとして入り口にいる乗客に睨まれる。怯んだ隙に後ろに並んでいた若者が「乗らないんですか!?」とこれまたキレ気味の声を発してごりごり乗り込んでいった。 「すみません」  とっさにそう謝る。いや待て今の悪いの俺か? と気がついたのは、小さな車体が危なっかしくバス停を出て行ったあとのことだ。  この調子ならもう一本待っても混雑しているだろうと、歩くことに決める。しばらく歩いたあと後ろから環を追い越していった次の便のバスは、まんまと空いていた。 「………………」  一事が万事こんな調子の日、というのはある。あるが自分はどうもその割合が多い気がする。要するに「持っていない」のだ。なんとなく、損する星回りに生まれついている。  そういう星回りなのはよーくわかっているので、次の次のバスを待つような真似はせず、そのまま歩いた。ちょうどいい運動不足解消だ。それに、ひとりで黙々とこなすことはなんでもきらいじゃない。  絵はうまい、と褒められるのも、その辺りが少し関係していると思う。  田舎は「男は男らしく、女は女らしく」という風潮の残る田舎だったから、ゲイであることはおろか「絵を描くこと」すら言い出しにくい趣味だった。そんな環境を捨てて飛び出した都会。金銭面こそ楽でなかったものの「朝から晩まで絵を描いて、なおかつうまくいけば褒めてもらえる」という暮らしは、大げさでなく環にとって夢のようだった。  絵ばっかり描いてないで外で遊びなさい。  お兄ちゃんはあんなに元気なのに。  おまえ、彼女つくらねーの? 俺が高校生の時には――  自分がストレートだったなら、ごく普通の家族の会話なんだろう、それは。けれど逃げ場のない十代の環には、毎日少しずつ肺を削ぎ取られでもするような息苦しい日々だった。  専門学校の同級生には、数週間で顔を見せなくなる者もいた。入学金高かったのに、こんなに楽しいのに、と思いながら、環はひたすら課題をこなした。人物デッサンがうまくいかなかったときには、構造から理解しなきゃだめだ! とバイトを増やして筋肉図の高い本も買った。ぼろぼろになったそれは、今でも古いアパートの仕事場に座右の書として置いてある。  本と言えば、都会のひとり暮らしになって良かったことのひとつに「好きな本を好きなだけ読める」があった。BLというものの存在はもちろん田舎にいた頃から知っていたが、スマホひとつとっても親の払いだ。うっかりタップして料金でも発生しようものなら、請求書を見た両親に「これはなんだ」と問い詰められかねない。紙の本は言うまでもなく、見つかったら焚書レベルだ。  というわけで、たまに広告で現れる自分と同じように男が好きな少年たちのあれやこれやを妄想するだけで堪えていたものが、漁り放題になったのだ。落ちないわけはなかった。深い沼に。  生活費の許す限り、いや、ときには生活費を削ってまでBL漫画や小説を貪り読んだ。  そこには自分と同じように悩み、傷つく少年たちの姿が生き生きと描かれていた。  衝撃だった。  どうしてこの作家さんは俺の頭の中が、傷ついた心が、こんなにわかるんだろう。会ったこともないのに。  しかもBLという世界の素晴らしいところは、最終的に幸せになることがほぼ保証されていることだ。  途中ですれ違ったり傷つけ合ったりオークションにかけられたり寝取られたり座敷牢に閉じ込められたりやくざのイロになったり各種耳が生えたり転生したりはするけれども、最後にはどうにかこうにか幸福を手にする。  BL、それは救い。  BL、それは君が見た光。僕が見た希望。  青春の――とハマリにハマった挙げ句、読むだけでは飽き足らなくなってついに自分で描き始めたのがそもそも漫画家になったきっかけだった。  友だちもなく金もなく、ひたすら描きまくっていたおかげで上がった画力が認められての受賞。  ――あれが人生のピークだったな。  真面目な生徒だった環の受賞を専門学校の講師は喜んでくれ、編集者は「男性だったんですか……! どうりでリアルだと思いました」と持ち上げてくれた。デビューのインパクトもあって在学中に発表した作品の反応は良かったから、そのまま漫画家一本の道を選んでしまったのだが、デビューした中堅出版社がリーマンショックのあおりを受けてまさかの倒産をしたあたりからケチがつき始め「絵はうまいがストーリーがいまいちなパっとしない漫画家」のままここまでずるずると来てしまった。  自分がそうだったから、田舎で自分自身のセクシャリティに悩むキャラクターの話ばかりを描いてしまう。自分のような人間がそれを描くことによって、どこか田舎で救われる子がいるはずだと信じてる。そのために漫画家になったのだ――という志は「立派だけど、まず届かなくちゃ意味ないでしょうに」としょうこに言われてから、口に出来なくなった。  今回の企画はおそらくしょうこの口添えがあって回って来たのだろうが〈躯から始まるドラマティックラヴ〉なんて自分から最も遠い作風なのだ。殻を破れ、というエールなのはわかっているが、よりによって最もすかすかの引き出しを開けてくれなくとも、と思う。  黙々と歩くことは好きだが、黙々としているだけに一度暗い考えが頭をもたげるとどつぼにはまってしまう。  社会人としていまいち自信がないことは、そのまますべての局面での言動にも影響してしまう。いざ気になる相手がいたとして、仕事がうまくいっていないのに、という自分自身への後ろめたさから、浮かれた気分で恋愛になんてなだれこめない気がする。大胆な展開の前前前段階くらいでつまずいているのだ。思い切って漫画を捨てて普通に働くか? と考えたことももちろんあるが、運良く会社に入れたとして、また周囲にゲイバレを畏れる日々が始まるかと思うと実際には踏み出せなかった。  ……しょうこさんは凄いよな。  もりもり仕事して二十代後半で理解ある旦那さんと結婚して子供を産み、そんな忙しい中で息抜きに書いた作品で受賞、今も精力的に書き続けている。しかも人気が出始めた忙しい中で二人目まで産んだ。なにもかも「持っている」彼女だから「大胆に恋愛して大胆な作品を描いてみろ」なんて言えるのだ。ずっと光の中を歩いてきた人間と、そうでない人間とでは、思いつく選択肢がまず違う。 今までの人生で、どれだけ取りこぼしてきたものがあるんだろう。 これからどれだけとりこぼしていくんだろう。 考えても仕方のないことを考えてしまう。恋も仕事も今のままではだめなんだろうとはわかるけど、どうしたらいいのかはわからない。せめて仕事に自信が持てたなら、恋にも前向きになれるのかも知れないが。  俺が思いつく「大胆」なんて「シャウエッセンを一度に二袋全部食べちゃう! ひとりで!」くらいだもんなあ。 「………………」  我ながらスケールの小ささにどんよりする。と同時に冷蔵庫が空であることも思い出した。  家に帰る前に、スーパーにも寄らなきゃ。  コンビニならアパートのすぐ近くにあるのだが、スーパーのほうが弁当や飲み物が安い。もちろんシャウエッセンも。  疲れているのに遠いスーパーまで行こうとしている自分に、そのレベルが染みついている自分に、またまた情けなさがこみあげる。  空模様が怪しいのは春のせいなのに、なんとなく自分のどんよりした心を写し取られているようで、環は足を速めた。   「まあそうなるとは思ってましたよね……」  自分の心を写し取っている、などという人間の感傷などもちろん関係なく、雨雲は自分の 職務をまっとうして雨を降らせた。環がスーパーにたどり着くまでの道のりで、ことごとく赤信号に引っかかっている間に。  もちろん「持っていない」環は傘も持ってはいなかった。春の天気が変わりやすいのはわかっているのだが、降るかなと思って持って出れば降らず、降らないだろうと思えば降る。今日は後者だったというだけの話だ。  店内に駆け込むと、売り場は早くも冷房が効いている。ぶるるっと水から上がった犬のように身震いしつつ、この店ではいつも安い豆腐をかごに入れた。自炊はあまり得意でないが、豆腐なら買っておけばそのままなりちょっと温めて湯豆腐ふうにするなりで食べられる。あとは卵、納豆、シャウエッセン、ウーロン茶、インスタント味噌汁と特売のカップヌードルをピックアップして、最後のコーナーで弁当を選ぶ頃には体が冷え切っていた。  外はまだ雨かもしれないが、ここまで来ればアパートはそう遠くない。さっと会計を済ませて小走りに帰ろう――とレジを見ればどこも結構な人数が並んでいる。うまいことバスに乗れず歩いてきたせいで、混み合う時間に当たってしまったようだった。  こういう負の連鎖も「持ってない奴あるある」~!  心の中で嘆きつつ、一番早く終わりそうなレジを探す。こういうとき、並んでいる人数も大事だが、かごの中の品物の量も重要だ。素早く並んでいる人間のかごの中身を吟味して「ここだ!」と面を上げたとき、環は解析によって得た微量の興奮が儚く散っていくのを感じた。  ――こいつかあ……  ここだ! と当たりをつけたレジに入っていたのは、背の高い青年だった。一週間ほど前から入るようになった、おそらくは大学生のバイト君だ。  なにかスポーツでもやっているんだろうか。引き締まった胸周りは、高身長と相まって、威圧感がある。と、感じる半分は男らしい体格に対する自分のやっかみなのはわかっている。しかしその分を差し引いたとしてもとにかく彼はいつも不機嫌そうに口を引き結んでいて「いらっしゃいませ」の声もひどく小さい。  体格と反比例する機能でも搭載されてんのかな。  一言でいうと「ちょっと感じが悪い」のだ。スーパーのレジなんて特段会話をするわけでもないのだが、少しでも不快でないほうがいいに決まっている。環はいつも彼のいるレジを避けてきた。  今日は濡れたし気持ちも落ち込んでるし、早く帰ってネタ出しをしなければならないが、彼のところに並ぶくらいなら数分ロスしてもいいから別のレジに――と思ったときにはもう遅い。環の後ろには続々列形成がされていて、いまさら抜け出すことはできない雰囲気だった。どこからか舌打ちさえ聞こえる。もたもたすんな、ということだろう。しょうこから夕方の買い物時間の主婦の一触即発具合については聞かされていたから、いつも避けるようにしていたのに。気がつけば完全に地雷原の中だ。  環の持ってない史上でも今日はことのほか持っていない日のようだった。こんな日は下手に逆らわないに限る。諦めの境地で大人しく列に並び、いよいよ自分の番になったときだった。 「……か」  でかい図体に対して酷く聞き取りづらい声。それが自分に向けたものなのだと気がつくのに少しかかった。  まさか、なんとなく感じ悪いと思ってたことがバレた? 「はい?」  おそるおそる応じると、彼はさっきよりは聞き取りやすい音量で言った。 「三十秒お待ちいただけますか?」  ああ、と思った。なんらかのレジトラブルか、レシートの用紙が切れたのだろう。空いてるレジに並んでやったぜ! と思った瞬間そのような憂き目に遭うのも環にとっては珍しくないことだったので、俺逆に凄いな? と思いつつ「はい」と応じると、バイト君はレジを離れてどこかへ姿を消した。  え? マジ? なに? トイレ?  レジトラブルや用紙の交換なら、持ち場まで離れはしない。なにかおおごとだろうか。アメリカのシットコムなら大仰な観客のため息が入るところだろう。三十秒とは言っていたが、レジが復帰するまで実際には何分かかるのか。  ああ、俺、とことんついてない。  やがて戻ってきたバイト君は、何事もなかったかのようにレジに入った。  レジの責任者も伴っていなければレジロールを持ってもいない。  じゃあなんでわざわざ席外したんだ?  訝しく思ったとき、スピーカーから店長らしき男性の声が流れ始めた。 『ただいまの時間より、店内全品一割引。店内全品一割引でご奉仕させて頂きます』 「……これ、全部一割引に出来ますから」  相変わらずむっすりとはしていたものの、そう告げるとバイト君は商品をレジに通し始めた。  ぴっぴっとリズミカルに響く音を耳にしながら、環は混乱していた。  え?  わざわざ俺に適用してくれるために?  自分が知らなかっただけで、この店はこの時間にいつも一割引きをしているのだろう。それだけのことに過ぎない。  ――だけどさ。  今日は散々で。 愚痴もいっぱい言っちゃって。 雨にもちょっと濡れちゃったりして。 ついてないと思って、そんな日になんか感じ悪いって思ってた奴に当たってほんと最悪って、ひどいこと俺は思ってたのに。 「千四百二十九円に――お客様?」  むっすりと金額を告げる声が、聞いたことのない調子を紡ぐ。驚いて面を上げると、何かがつうっと頬を伝わり落ちて行った。 「え?」  なにこれ。俺、泣いてんの?  スーパーのレジで? 「お客様?」 「す、すみま……」  謝って、さっさと支払いを済まそうと思うのに、言い終わらないうちに大粒の水が両目からこぼれ落ちる。それは豆腐パックの表面を、ぱたたっと叩いた。  
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