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ゆうに二十キロ以上はあるだろうスーツケースを片手で軽々と持ち、階段を降りた。怒りのパワーは素晴らしいと、我ながら感心する。きっと明日は筋肉痛だろうが。
私は幸せそうに大口を開け、饅頭にかぶりつこうとしている母の目の前に立った。テーブルに目を向けると、包み紙がバラバラと散らばっている。いくつ食ったんだ。
母は饅頭を口に入れる寸前で手を止め、その姿のまま真横に立っている私の顔とその横にあるスーツケースを交互に見た。
「なに突っ立ってんの? 座ったら?」
「騙し討ちって酷過ぎませんかね?」
ごく軽い口調でそう言ってみたが、案の定、この人は素知らぬ顔だ。
「まあ、落ち着きなさいって。お茶淹れてあげるから座んなさい」
落ち着いている。私はこれ以上無いほど落ち着いている。こんなことをされて言いたいことは山ほどあるが、何を言っても無駄なのはわかっているから言う気は無いし、もちろん、売り言葉に買い言葉の喧嘩もしない。最後の手段、実力行使あるのみだ。
澄まし顔でお茶を淹れている母と向かい合い、絶対に声を荒げないと誓った。
「さっきの人は?」
「さっきの人って……なんて言い方するの。あなたの旦那様になる人でしょう? ちゃんと修造さんって呼びなさい」
「それで? その修造さんとやらは?」
「もう帰ったわよー。何か用事があるとか言って。あんたとはほぼ話ができたって言ってたわ。良かったわねぇ、波瑠。修造さんに気に入ってもらえて。あんたもついに片付くのねー。お母さんホッとしたわ」
「お母さん、お話があります」
「なあに? 改まっちゃって……気持ち悪い」
「ひとつ伺いたいのですが……お母さんは、私をあの修造さんとやらと結婚させたいのですか?」
「良い人でしょう? お父さんも大乗り気でね、親友の息子さんだから素性は確かだし安心だもんね。あちらもひとり息子でしょう? 娘ができるってものすごく喜んでくださって、もうトントン拍子に話が進んじゃってね。栞里ももうすぐだし、忙しくなるわぁ。そうだ、お父さんに留袖お強請りしなくっちゃ」
母が猫なで声で微妙に話を逸らしてくるのは、私を絡め取ろうとするときの常套手段。いつまでも子供じゃあるまいし。誰がそんな使い古した手に乗るものか。
「そうですか」
「なあに? 何か気に入らないことでもあったの? 大丈夫よー、男の人なんて結婚したら変わるのよ。みんなそんなもんでしょう? あんたが気に入らないところはちゃんと自分好みに躾ければいいの。頑張んなさいよ。頑張って早く孫の顔見せて頂戴」
「わかりました。では、私からも一言」
「あら、いいのよーお礼なんて。親が子供の心配するのなんて当たり前なんだから。あんたも親になればわかるわよ。楽しみだわ、結婚式。ドレスにするの? それとも着物? あちらのお母さんと相談しなくちゃだわねー」
「お母さん。私には今、お付き合いしている人がいます。具体的なことはまだ決まっていませんが、いずれは結婚する予定です。ですから、私は、今日のお話をお受けすることができません。お父さん、お母さんには大変ご迷惑をおかけして申しわけありませんが、ご了承ください」
「ちょっと……あんたなに言ってんの?」
「私は、今日、この家を出ていきます。もう戻るつもりはありません。お父さん、お母さんには、長い間、大変お世話になりました。産み育てていただいたご恩はけっして忘れません。お父さんにも直接ご挨拶したかったのですが、それは叶いませんので、波瑠がありがとうと言っていたと、お母さんから伝えてください。それでは」
一方的に台詞を棒読みした後、目を丸くし硬直している母を残し、スーツケースを転がして玄関へ向かった。背中で母の叫びにも似た声が聞こえる。
「波瑠! 待ちなさい! 修造さんはどうすんのよ?」
三和土に降りて靴を履く直前、振り返りもせずに冷たく言い放った。
「自分で蒔いた種でしょ、自分で刈れば?」
母が何か叫んでいるが、もう知らない。
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