お百度参り

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私は大阪府の東部にある石切劔箭神社の雇われ巫女である。 饒速日尊と可美真手命の二柱をお祀りし、石切さんとして広く愛されているこの神社は、腫れ物を始めとした病気平癒にご利益があるといわれている。 早朝の清々しい空気の中、神社の境内を掃き掃除するこの時間が私は好きだった。今日は快晴なので、特に沢山の人々がご参拝されるだろうと思うと、掃除にも力が入る。鼻歌を歌いながら本殿へ向かえば、本殿前に小さな参拝客がいた。 「なぁねーちゃん、この百回やるやつって、どうやってやんの?」 小さな参拝客、もとい小学校高学年くらいの男の子が、お百度参りを案内する看板を指さして話しかけてきた。 「ああ、これはね、お百度参りっていって、あそこに見える神社入り口の石と、本殿前にある石の間を百度行き来すれば願いが神様に届くっていわれているの。あそこにあるお百度紐をもって、回る度に一本づつ折っていくんだよ。」 「ふーん、百円しかないねんけどできる?」 「お気持ちだから、いいと思うよ。」 「絶対百回回らあかんの?」 「決まっているわけじゃないから、自分が決めた回数でも大丈夫だよ。」 「そっか、ありがと。」 そういうと男の子はゆっくりとお百度紐の置かれている場所に向かい、賽銭箱に百円を入れお百度紐を取ると、本殿の百度石からお百度参りを始めた。信心深い子だなぁと遠くから見守っていると、私はその違和感に気付く。 男の子は、とにかくゆっくりゆっくりと歩いていた。どこか右足を引きずっているようにも見える。その表情は心なしか苦痛に歪んでいるようだった。 結局、男の子は一度回っただけで、そのままお百度紐を持って帰ってしまった。足を痛めていたのか、もしかするとそれが治るようにお願いでもしていたのだろうか。百度回る勢いだったので、一度で終えたことに私は拍子抜けしてしまう。まぁでも、自分ができる範囲だからね、とあまり深く考えず、掃き掃除の続きをし始めた。 「あ、昨日の巫女のねーちゃん。」 次の日の夕刻時、私は男の子から声をかけられた。小学校は終わった時間だろうが、あまりに軽装だったので思わず心配の言葉が口から漏れる。 「あら、こんばんわ。こんな時間に一人で大丈夫?お父さんお母さんは?」 「お父さんまだ仕事や。お母さんは今家おらん。でも大丈夫やで、家めっちゃ近いし。歩いてすぐやねん。」 どうやらかなり近所に住んでいるらしい。両親のことは気になったが、完全に日が暮れているわけでもないので大目に見ることにした。 「あんな、ねーちゃんに聞きたいことあんねんけどさ。昨日教えてくれた百回まわるやつ、途中でお願いって変えてもええん?」 「どうだろう。それも神様にきちんと伝えて、しっかりお願いすれば大丈夫かもしれないね。」 「ふーん。じゃあ頑張ってみるわ。」 爽やかな笑顔でお百度石の方へ歩き出した男の子の手には、昨日のお百度紐が握られていた。どうやら昨日の続きを今日するつもりらしい。なるほど、そういう方法もありなのかと微笑ましくなり、私はその足取りを見守った。 相変わらずゆっくりとした足取り。他の大人にどんどん追い抜かれながらも、一歩一歩踏みしめて歩いている。何故か私はその足取りから目が離せなかった。そうしているうちに、今日は二度回った段階で、男の子は帰っていった。 「毎日毎日一生懸命だね。それくらい大きな願い事なのかな?」 男の子はそれからほぼ毎日お百度参りの続きをしに来ていた。一度に回る回数も徐々に増え、すでに半数近くの回数を回っている。ずっと見守っていた私とは既に顔見知りになっており、今日も元気に挨拶をして五度回り終えた男の子へ私は声をかけた。 「ん~、ねーちゃんやったら巫女さんから、特別に俺のお願い事教えたるわ。」 ひそひそ話をするようなポーズをとった男の子。私は屈んで耳元を近づけた。 「あんな、お母さんの病気治してってお願いしてんねん。」 「そっか、だから今お母さんお家いないの?」 「せやねん。俺がこの回るやつ始めた日から、お母さん入院しててな。だから今お母さんの病気治るようにって、お願いして回ってんねん。」 「そうなんだ…偉いね。そこまで頑張ってるんだからきっとお願い届くよ。」 当たり前や!と自信満々に笑う男の子につられて私も笑う。あまり無責任なことは言えないけれど、この子のお願いが叶うようにと心から強く願った。と同時に、ふとあの事を思い出す。 「ああ、だから途中でお願い事変えるっていってたんだね。じゃあ一番初めは何をお願いしたの?」 純粋な興味からの質問だったが、男の子はバツが悪そうに目を逸らした。 「それは…もうええねん。どうせ叶わへんやろうし、お母さんが治る方が大事やから。」 触れない方が良かった部分だったかと察し、巫女としてあるまじき軽率さを反省した。男の子はすぐにじゃあまたな、と手を振って帰り始めたが、私は少しの罪悪感を抱きながら男の子の背を見送った。 平日はほぼ毎日。週末も土曜日か日曜日かどちらかは必ず。雨の日は来ないけれど、曇りや晴れの日はお百度紐のみを持って、ゆっくりと歩きながらお百度参りを続ける男の子。その存在は、宮司さんや他の巫女さんにも知れ渡りつつあった。参拝客からも声をかけられることもあるのか、男の子の元気な挨拶が境内を飛び交う。私は時折声をかけ見守りながら、静かに男の子を応援していた。 そしてとうとう、その日がやってきた。 「巫女のねーちゃん!見て見て!俺やったで!」 週末の早朝。掃除をしていた背後から声をかけられ振り返る。見れば、男の子の手に握られているお百度紐は、きれいに全て折られていた。 「すごい!しっかり百度、回ったんだね!もうお神様には報告した?しっかり本殿で神様に報告して、このお百度紐はあそこの箱の中に奉納してね。」 「おう!任せといて!」 弾けんばかりの笑顔で本殿へ向かった男の子を送り出す。その笑顔に私も胸がいっぱいになり、男の子の背を褒め称えた。すると歩いて行った男の子と入れ違いに、男の子によく似た男性が声をかけてきた。 「すいません。息子がお世話になっております。あの子の父です。巫女さんのことは息子から聞いていまして、ぜひご挨拶をと思い…。」 「お父様でいらっしゃいますか。ご丁寧にありがとうございます。息子さんは偉いですね。差し出がましいですが、お百度参りはお母様のためにと聞いておりましたので…。」 「そうなんです。今朝も今日で百回達成や!と張り切って、きちんとやり遂げてくれました。実は息子にはまだ言っていないのですが、妻は来週退院できることになったんです。きっと息子が頑張ってくれたおかげです。妻も私も、本当に感謝しています。」 「そうなんですか!それは本当に良かったです…!」 嬉しい報告に私の胸は躍った。男の子の頑張りが報われたのだと誇らしくなる。しかしそれは本題ではないというように、父親は少し涙ぐんだ様子で本殿へ顔を向けた。 「妻のこともそうですが、実は私たちの感謝はそれだけじゃないんです。」 「と、言いますと…。」 「実は息子は、右足が義足なんです。」 その事実があまりに自然に理解できたことに、私は少し驚いた。全ての合点がいった気がしたのだ。ゆっくりとした歩き方、引き摺るような右足、我慢していた苦痛の表情。一度に百度回ることはできないから、日を分けて百度回るよう来ていたこと。ということは、一番初めの願い事は。 「あいつね、一番初めは交通事故で無くなった右足が生えてきますように、って願ったみたいなんです。でも丁度同時期に母親が入院してしまって、そっちの方が治してもらわなきゃって、つけたばかりの義足で頑張って。でも今朝ね、あいつ、笑いながら言うんですよ。石切さんの神様はすごいぞって。お母さんも治してくれたし、俺に新しい足もくれたんだって。」 静かに泣く父親につられ、私も気付かずぽろぽろと泣いていた。 「初めは足が無くなって、義足に慣れなくて、リハビリも嫌がってどこも行こうとしなかったのに、私の知らないところでお百度参りを始めていて。それがリハビリになったのか、徐々に義足が馴染んだみたいなんです。そうしたら、義足という右足が生えたんだって大喜びで、前みたいに明るくなって…。」 さすがに泣いていることを自覚して、私は目元をハンカチで押さえる。父親はティッシュを取り出し涙を拭ってから、続けた。 「あいつの頑張りを、きちんと神様が見守っていて下さった。だからどっちの願いも叶えてくれた。本当に、いくら感謝しても足りません。」 頭を下げられ、慌てて頭を上げてもらうよう促す。 「本当に、息子さんは頑張ってくれていましたから。それこそ、私も勇気をもらいました。感謝はぜひ私共のご祭神へおっしゃってください。きちんと届いていますよ。」 大人が二人して泣いている様は注目の的だが、幸い早朝のためまだ参拝客はまばらだった。しかしそうこうしているうちに、熱心な報告を終えた男の子が戻ってくる。ハンカチで隠した私の顔を覗き込むように、男の子は言った。 「何やねーちゃん、目、腫れてるで?ここの神様、腫れ物とかも効くんやろ?ねーちゃんもお百度参りしたら?」 こら、失礼だぞ!と父親に諫められる男の子の言葉に、私は思わず笑い声を上げてしまった。 「あはは!そうだね。君を見習って、今度は私がお百度参りをしなくちゃね。」 お百度参りをする参拝客が絶えない石切さんで、私と男の子は一緒に笑い合っていた。
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