運転《うんころ》がしの狐神

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*** 「おじさん、ガンバレ。おじさん、ガンバレ」 「おい、おじさんじゃないと言っただろう。ムースだ」 「テヘ、そうだっけ」 「そうだ。ところでお嬢ちゃん、もうそろそろ百回になるか」 「えっとね、うんとね」  サチは地面に書いた『正』の字をじっとみつめて考え込んでいる。 「おい、数えていなかったとか言わないだろうな」 「おじさん、うるさい。サチ、ちゃんと数えているもん。大丈夫だもん」 「じゃ、何回だ」 「あっ」 「おい、どうした。なんだその顔は。問題でもあったか」  おや、サチのあの顔は問題ありの顔だ。サチは口を開けたまま並んだ『正』の字から目を離そうとしない。 「サチ」  狐神はサチの肩に手を置くと声をかけた。するとサチが耳元で「どうしよう。百回越えちゃっていた」と囁いた。  その言葉に笑いが込み上げてきた。 「おい、何笑ってんだ。どうしたって言うんだ」 「おじさん、ごめん。もう百八回目だった」 「な、な、なにぃ。お嬢ちゃん、勘弁してくれよ」  ムースはガシガシと耳元を掻き出しはじめた。 「まあまあ、いいではないか。百八とは煩悩の数だ。良いことがあるかもしれぬぞ」  狐神はムースのもとに近づきしゃがみ込むと頭を撫でてやった。 「ああ、気持ちいい。じゃなくて、キツネの旦那。良いことも何もおいらの目を治してくれるんだろう。それとも、その願い以外にも良いことがあるってことか」 「さあ、どうだか」 「なんだよ、それ。ああ、喉乾いた。お嬢ちゃん、水くれないか」 「うん、いいよ。待っててね」  サチは湧き水のある社の裏側に走って行くとすぐに柄杓に手に戻って来た。 「水、どうぞ」 「おお、ありがとうよ」  ムースは柄杓に顔を突っ込み一気に水を飲み干した。 「ああ、生き返るね」 「おじさん、じゃなくてえっとえっと……ムースさん、生き返ったの。というか死んでいたの。ねぇねぇ、どうやったら生き返るの。サチも生き返ることできるかな。その水飲めばいいの。うーん、違うよね。だってサチ毎日飲んでいるのに生き返れないよ」  ムースは顔を上げて「お嬢ちゃん、おいらは死んじゃいないさ。『生き返る』ってのはそれくらいの気持ちだってことで。わからねぇかな」と困り顔をしていた。  サチは生き返りたかったのだろうか。そんなこと今まで一言も口にしたことはなかった。楽しそうにしていたがそうではなかったのだろうか。 「サチ」 「えっ、なーにキツネさん」 「生き返りたいのかい」 「あのね、そうなの。サチね、おじさんと出会う前に楽しそうにしている親子を見ていたら急にそう思っちゃったの」 「そうか」  本当にそうなのだろうか。 「あのね、でもね。キツネさんといるの楽しいから、生き返られなくてもいいよ」 「本当に」 「うん」  狐神は腕組みをして黙考する。今まで我慢していたのかもしれない。サチは良い子だから。座敷童子になっても人の心は忘れていなかったのだろう。もっといい親のもとに生まれていたらこんなことにはなっていなかっただろうに。 「よし、決めた」  突然ムースが大声を上げた。 「どうした、ムース」 「キツネの旦那。おいらの願い変更してもかまわねぇか」 「変更」 「そうとも。変更だ」 「いや、今更それは無理だ。すでに叶えてしまったから」 「な、なに。あれ、そ、そういえば。景色もお嬢ちゃんの顔もキツネの旦那の顔もよーく見えやがる。こりゃすげえや」  ムースはあっちこっち顔を向けて確かめていたかと思ったら飛び跳ねて鳥居のほうへと駆け出していった。 「おーい、変更って言っていたけどいいのか」  ムースはピタッと足を止めて引き返してきた。 「そうだった。おいら嬉し過ぎて舞い上がっちまった。けど、やっぱり変更してくれ。目はもとに戻してくれてかまわねぇ。その代わり、お嬢ちゃんを生き返らせてはくれないだろうか」  なんと、そんなこと考えていたのか。この猫又ムース、思ったよりもいい奴ではないか。サチのために自分の願いを取り消そうとするとは。ああ、ダメだ。泣けてきてしまう。こういうのに我は弱い。  我もサチが生き返りたいのであれば叶えてあげたい。サチのおかげで参拝者が来なくても楽しく過ごせてこられた。ここは一肌脱ごうじゃないか。 「気持ちはよくわかった。ムースよ。目のことはそのままでいい。我がなんとかしよう」 「本当か。嘘じゃないだろうな」 「我は狐神だぞ。嘘などつかぬ」  ムースの横でキラキラした目をしてみつめてくるサチの姿があった。 「キツネさん、サチ生き返られるの。ねぇ、ねぇ、ほんとのほんと」  狐神は頷きサチの頭を撫でた。 「本当だ。けど、座敷童子でいたときの記憶も生きていたときの記憶も全部消えてしまうぞ。いいかい」  サチは少し考え込んでいたが「サチ、生きていたときのことは忘れてもキツネさんのこと忘れないもん。絶対、絶対憶えているもん。だから大丈夫だよ」と力強く言い放った。  狐神は微笑み、「そうか」とだけ呟いた。  忘れないか。それは無理な話だと思うが時として生まれ変わっても前世の記憶を憶えていることもある。そうなれば我も嬉しい。サチの言葉を信じよう。強い気持ちは奇跡を起こすこともある。 「あっ、おじさんのことも忘れないからね」 「おう、そうでなくっちゃ。生き返ったら恩返ししてもうつもりだからな」 「うん」
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