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アパートの狭い居間に、二人はいた。すずは死んだような目をして一点を見つめ、侑李はうつむきながらしくしくと泣いていた。二人ともこちらを見向きもしない。
「晴美が来たよ」
すずは重たそうに首をこちらに向けた。その目はまるで何も見えていないみたいだった。なんと声をかければいいのか、わからない。
「……」
「あっ、香也?」
嬉しそうに顔をほころばせるがすぐに元に戻る。
「違った……」
それも、別段悲しそうというわけではなく、ただ真顔に戻っただけだった。
「ずっとあんな感じなんだ」
利佳子が小声で言う。
「私のせいだって言いたいわけ?」
「そういうことじゃなくて」
「知らねえよ。私がここにいたところで事態を悪化させるだけだから、帰るわ」
「……駄目」
声の主は侑李だった。泣きながらも左手の拳を握りしめ、立ちあがる。その右手には……
「侑李!」
カッターが握られていた。私に飛びかかろうとするが、そもそも足が震えて上手く立てていない。後ろから利佳子が抑えるも、カッターは握りしめたままだ。
「順番間違えた、あんたを先に殺るべきだった」
手首を捻って、利佳子の首を切ろうとする。利佳子はやめてと呟くだけで抵抗しない。すずはこちらを見向きもしない。私は、
私は。
「……私が助けるとでも思ってるの?」
ただただ侑李を睨みつけていた。
「お前……!」
そう呻いた一瞬、侑李の手が緩んだ。利佳子がすかさずカッターを奪い取る。
「あっ……」
利佳子は肩で息をしていた。うなじに汗が流れている。冷静に見えたけどやっぱり怖かったようだ。
「……っう……うわあぁぁぁ」
侑李がその場に泣き崩れた。
「……うう、あっ、当たり前、だ。私達な、んかが、生きてて、と、とうぜんの、ように生きてて、良いわけないじゃん……。もっと、早く死ぬべ、きだった、しぬべきだったんだ。で、もどうせアンタたちは、いきる、んでしょ? 何食わぬ顔で。だから、私が、わたしが殺さなきゃ。ちゃんと、わたしが、終わらせな、きゃ」
そう言って、侑李は自分の首に手をかけた。
「……でも、無理だ。だから自分で死んでよ。もちろん、私も、死ぬから」
そのとき、ずっと黙っていたすずが声をあげた。
「あのさあ、お前が死んでも全然良いし、自分が死ぬのも構わないんだけどさ、さっきお前が言ってたのってさ」
息を吸う。
「香也が死んで当然だってこと?」
侑李が固まった。もう、泣いていない。
「私たちが今まで何してきたのか、わかってる? 当然の報いだよ。全部あいつが始めたことなんだから、最初に死ぬべきは香也だったんだ」
すずの震えは恐怖によるものなのか、それとも怒りによるものなのか、私にはわからない。
侑李がまた何か言おうとしたその瞬間、すずが侑李を押し倒した。
「どうして香也が死ななきゃなんねえんだよ!」
「なっちゃんをいじめてたからに決まってんじゃん!」
「だからって言って死んでいい理由にはなんねーだろっ! 弱肉強食って言うじゃないか、強い人間が弱い人間を虐げて何が悪いんだよ! 奈津美に香也より優れているところあったか? 容姿も、運動神経も、頭の良さも全部香也の方が上だったじゃないか!」
「性格は?」
侑李がすずを睨みつけて言った。
「じゃあ性格はどうなの? あんな、自分より弱い人はどうなってもいいっていう態度で性格も良いって言えるの⁈」
すずもまっすぐに侑李を睨み返す。そして――。
何故か、泣き出した。
「どうして」
目から大粒の涙が止めどなく流れ続けていた。それでも、すずはその涙を拭おうとしなかった。
「……どうして、香也を悪い子だって言うの? だからこんなことになったんじゃないの? みんなが、周りの大人たちが、そんな風に決めつけて、あんなに何でもできるのに、あんなに美人なのに、誰かを傷つけることでしか生きていけなかったんじゃないの⁈」
侑李は目を見開いていた。すずの反応が予想外だったのだろう。利佳子はさっきからずっと怯えたような顔をしている。もう仲裁をしようとはしない。
「香也はいい人だ。大人しくして空気を読んでいれば済むと思ってる、何の目標も夢も無く過ごしているような奈津美とは違う。こんな私に、……私なんかと友達になってくれたんだよ! ブスで勉強も運動も出来なくて、貧乏で口悪くて、今まで親や先生にも優しくされたことが無かった、そんな私に、優しくしてくれたんだ、仲良くしてくれたんだよ! いい人だよ、絶対良い人だよ……」
侑李は最初呆気に取られていたが段々と余裕気な表情に変わっていった。
一体、何を考えてる?
「へえ、そう」
意地悪く笑ったつもりなのかもしれない。でもその頬は引きつり、不自然な笑みだった。声も、震えている。
「優しくされた、って。香也のことだよ? 利用できるから、仲間にしておけば楽だからと思ってのことでしょ? あんたの弱いところに付け込んでさ、言うこと聞かせられると思ってたんだよ、どうせ。そういう人間じゃないと弱い者いじめなんてことしないでしょ」
すずは顔を上げ、侑李の顔を見つめた。その表情は、さほど変わっていないように見える。
「……それでもいい」
すずは、そう、言い切った。
「もしそうだったとしても、それでいい。だとしても、お前なんかよりは全然良い人だよ。全部人のせいにして、最後は寝返っていい子ぶるなんて奴よりかはね」
「はぁ⁈」
侑李がすずに飛びかかった。利佳子が止めようと手を伸ばすが、侑李は泣きじゃくり、もう誰の手にもおえない状態だった。すずの襟首を掴んで泣き叫ぶ。
「いい子ぶってなんかない! 当たり前じゃん! いじめは駄目なことなんでしょ、いけないことなんでしょ⁉ それが世間の共通認識じゃん! 私が言ってるのは正しいことだよ。それをやってたんだから、ちゃんと償って死ぬっつてんじゃん! もうみんなに死ぬこと強制しないからさ、最後くらい言いたいこと言わせてよ! もう好きにさせてよっ!」
手が震えてぶらりと下がった。顔を抑えて侑李は泣きじゃくる。
「いつもそうだ! いっつもそう。私は正しいことを言ってるだけなのに、当たり前のことを言ってるだけなのに、綺麗事とかいい子ぶりっ子って言われる。別の誰かが言ったら当たり前のように受け入れられるのに。何を間違えたんだろう? どうしてあんなことやってたんだろう? いじめは駄目、なんて自分がいっちばん分かってるのに! 結局人のせいにしかできない自分が大嫌い。私なんで生きてんだろ? なんで、なんでっ、なんで……」
そして、また首に手をかける。
「駄目! 侑李」
利佳子が止めに入るが、侑李はその手を振り払った。
「お願いだからちゃんと死なせて……。もう無理なんだ。私にはもう生きる勇気が湧いてこないんだ」
生きる勇気。
その言葉が、ぐさりと心に突き刺さった。それでも、私はただ、一言、
「無理」と言った。
「そんなんで死ねるわけないじゃん。もっと金かけるか、痛いことしないと無理。自殺舐めてんのかよ」
こんなことしか言えなかった、そもそもこんなことしか感想が無かった。明らかに今言うべき言葉ではない。わかっているのに口から出てしまった。
皆がどんな反応をしているのかわからない。知りたくない。
「晴美!」
利佳子の声を無視してドアの方へ駆け出した。錆びつきボコボコにへこんだそれを叩きつけるように開け、階段を駆け下りる。ちょうど私が自宅から出てきたときと同じような具合に。さすがに今回はもっと速く走っていたし、顔もいくらか引きつっていただろう。
でも、たったそれだけ。涙は出なかった。
あんなに泣いていた侑李やすず、今まで私が見たことの無いような表情をしていた利佳子を見ても、心が動かなかった。侑李にかけた言葉も彼女を止めるためなんかではなく、単に、見ててイラついたからだ。羨ましかったからでもある。優しい人になりたいと思える侑李が。「死にたい」と口にして、それを実行しようとできるのが。私にはそんな勇気ない。なのにあんな偉そうなことを言った自分の気が知れない。もう本当に自分が何なのか、どうしたいのかさっぱりわからなかった。死にたいのか、生きたいのかさえも。
ただ、一つだけはっきりしているのは、今の私には死ぬ勇気なんか無いということ。なのに、生きる勇気だってこれっぽちも持っていないのだった。
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