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《対象読者》
日本書紀および日本の古代に興味のある人.
《推理》
一般に天皇家に苗字はないと云う事になっていますが、チョット納得し難いものがあります.
ある程度の大きさを持つ血縁集団があれば、それを他の集団と区別するために何らかの名を付ける筈だと思います.
そこで、天皇家の苗字を推理してみることにしました.
《漢風諡号、神武とは》
初代の天皇は神武天皇です.
すくなくとも、父親の代では何かしらの苗字を持っていたと思います.
神武天皇の父親の名前は、彦波ギサ武ロジ草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあいずのみこと)です.
(注:フォントが環境依存文字の漢字は、カタカナで代用しました)
彦波ギサ武ロジ草葺不合尊の中に武と云う字があるので、苗字は『武』であったと仮定してみます.
そうであれば、息子である神武天皇の苗字も、『武』となります.
すると、『神武』と云う漢風諡号は、『武』王朝の始まりを示すためにおくったと思えてきます.
《漢風諡号、武烈とは》
第25代天皇は武烈天皇です.本名は小泊瀬稚サザキ天皇(おはつせのわかさざきのすめらみこと)です.武烈は漢風諡号です.
武烈の『烈』を大漢和辞典で調べてみますと『潰える』の意味があります.
実際の皇統は、武烈天皇の系統から第26代継体天皇の系統に移っています.
『武烈』と云う漢風諡号は、『武』王朝が『潰えた』ことを示すためにおくったと推理します.
《大伴金村と継体天皇》
新しい皇統の継体・安閑・宣化天皇の時代に、実権を握ったのは大伴金村でした.
日本書紀を見てみると、安閑元年10月15日の条に、安閑天皇が大伴金村に対して『伯父』と呼んでいるところが記されています.
これは、安閑天皇と大伴金村が伯父甥の関係であることを表しています.そうであれば、大伴金村は、継体天皇の兄であるか、それとも安閑天皇の母親である目子媛の兄のどちらかと云う事になります.
目子媛は尾張氏なので大伴氏ではありません.
すると、大伴金村は継体天皇の兄である、と云う事になります.
そうであれば、継体天皇が応神5世の孫と云うのは詐称だったということになり、継体天皇の本当の苗字は『大伴』であったと言えます.
そして継体・安閑・宣化天皇の時代は『大伴』王朝の始まりと言えるでしょう.
日本書紀の作者が安閑元年10月15日の条を書いたのは、『武』王朝が『大伴』王朝に入れ替わったことを後世に伝えるためだった、と推理します.
《漢風諡号、欽明の意味》
第29代、欽明天皇の時代になると、蘇我氏が台頭してきます.
欽明天皇元年9月5日の条に、難波祝津宮で天皇と臣下が集まり話し合いをしたことが記されています.そしてこの時に大伴金村が失脚してしまいました.
この話し合いは『金』村を『欠』くための『神事(明)』だったのだと思います.辞典の字統によると、『明』には神事の意味があります.
つまり、神事を通して大伴金村を排除した天皇に対して、『欽明』と云う漢風諡号をおくったのだと推理します.
(了)
《参考系図、1》
《参考系図、2》
―― 奥付 ――
漢風諡号と天皇家の苗字(ベータ版)
著者:茜町春彦
投稿サイト「パブー」で公開した作品です.
パブーの閉店に際し、こちらに移植しました.
初出:
「リトルプレス胡麻01」2016年6月18日発行
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