都橋探偵事情『瘡蓋』

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都橋探偵事情『瘡蓋』

 桜の開花が年々早くなる。俗にいう温暖化のせいだろうか。各地で開催を予定している桜祭りもそれについていけず、当日は葉桜祭りとなることが多い。大岡川の桜祭りも例外ではなく既に散り桜となり、流れの止まったどぶ川は、一面薄紅色に化粧をしていた。  関内駅から吉田町を抜けて都橋を渡ると交番裏の古い二階建ての二階の一番奥から二軒目が探偵の事務所である。これからその探偵事務所に向かう男はテレビドラマのように活劇に適した男ではない。片山智也と言う男で大学を卒業し役所勤めをしていたが飽きてしまい、たまたま長者町の松竹映画館で寅さんを観た帰り、電柱に『都橋興信所・探偵募集』と古くさい看板を目にしたのが二日前だった。そして覚悟を決め事務所のドアを叩いた。漠然と探偵に憧れてはいた。平成元年四月三日、三十一歳のときだった。 「募集の看板見て来たんですが」  小さな丸い老眼鏡で新聞を読んでいた男は片山の言葉に一瞬驚いた。事務所の主で徳田英二である。平成と言う新時代に五十を迎える見るからに探偵らしい様子の男である。黒のスーツに縦縞のシャツ、ノーネクタイ。中肉中背で少し猫背である。 「看板てあの長者町の電柱の?」 「ええ、長者町五丁目の電柱の」 「あれか、外しときゃよかったな。手の届かない位置にあるから面倒で外してなかったんだ。私がここを開業した翌年に掛けた看板だから二十五年以上前になる。まあいいや、折角来たんだからやってみるか。けっこうやばい仕事もあるけどすぐに辞めてもいいから。それと危ない仕事の割に手間は安い。稼ぎたきゃ自分で仕事を探してくるんだな、歩合で支払う。寝泊まりしたきゃ奥にベッドルームがある」  徳田は勝手な条件だけを言った。 「お願いします、しばらく寝泊まりしてもいいですか?」 「だからそう言ったろ、ベッドルーム使って構わないって、で君の名前は」 「片山智也です」 「片山智也、片方の山に叡智の智に也、歳は?」 「五月で三十二になります。一応履歴証持ってきました」 「いや要らない、客の八割はやくざで残りは浮気調査だ。稀に探偵っぽいのがあるが危険な割には金にならない。だからあまり素性を明かさない方がいい。私も君のことをあまり知らない方がいいだろう、脅されると口を割ってしまうからな。客には本名を使わないことだ。偽名を考えておく」  そう言って徳田は二着掛かっている紺色のレインコートを選び羽織った。黒のカシミアのマフラーを首に一周してコートのポケットから黒革の手袋を出して丁寧に指先までを納めた。 「僕は何をすればいいんですか」 「客が来たら話だけ聞いとけ。それから私のことは所長と呼べばいい。当座の金はあるのか?無きゃ回すぞ」
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