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長い長い坂を登る。
夏の盛りと言うにはまだ早い七月上旬。
蝉の声すらまだ響かない夏の初めだというのに、気温だけは真夏以上に感じられた。
(畜生、なんだこの坂・・・・・)
アスファルトの地面を睨み付けながら、重たい足を引きずってゆるゆると頂上を目指す。
橘憲吾は坂を登りながら客を呼ぶ気があるのか、といつも思う。
この坂の上に建つ古い旅館は、叔父が祖父から受け継いで経営しており、幼い頃からの憲吾の行きつけだった。
よく家族で来た。
叔父は厳しいが何かと頼れる人で、母親が亡くなってからは、父に叱られたり、学校で何かある度ここへ逃げ込んだ。
大人になった今でも、それは変わらない。
大きな旅行カバンを片手にふと立ち止まる。振り返ると、小さな自分の町が一望できた。
眩暈がする。
今の自分には、見晴らしが良過ぎて気分が悪くなった。
坂の途中でへたり込んでいると、後ろからきた女子高生が颯爽と追い抜いて行く。憲吾の事をちらりと横目で見ると、ニヤニヤと笑って通り過ぎた。
「お父さ~ん!憲兄が途中でへばってる。もう、歳だねありゃ」
大声で家に向かって叫んでいる。従姉妹の「花」だ。
今年高校二年生になる筈だが、ちっとも女らしさが身に付かない。
(くっそ!花の奴、後で覚えとけよ!)心の中で毒づいたが、運動不足は如何ともし難かった。
ゼェゼェと息を切らしてやっと旅館の暖簾をくぐった頃には、花は制服を普段着に着替えていた。
「憲兄~…ダサ過ぎ」
花は憲吾に一瞥をくれると、ひょいとカバンを持ち上げていつもの部屋へ案内した。
「今回は何日?」
「わからん」
「ふーん、まぁいいけど。後で布団取りに来て」
古い旅館なので、客は常連か飛び込みが殆どで、端の人気のない部屋は最早、憲吾専用と化していた。
「飯はここで食うから、おばちゃんに言っといて」
「え~!面倒くさいよ。うちの方に来なよー」
「そっちの方が何かと面倒くさいんだよ!」
「・・・・大人でしょう?顔出して挨拶くらいしたら?」
意地の悪い笑みを浮かべ、ぐうの音も出ない正論を言い残し花が引き戸の向こうに消えた。
チッと舌打ちで花を見送って、憲吾はカバンからノートパソコンを取り出した。
エアコンのスイッチを入れる。来ると解っているのだから、点けておいてくれれば善いものを。
煙草と灰皿をパソコンの横に置くと、スイッチを入れて、仕事に取りかかった。
橘 憲吾は小説家だ。今回も、締切まで缶詰めの予定でこの旅館に来た。
いい歳をして親の脛をかじっていても、たまに短期のアルバイトをしていても、一応は書かせて貰えている、立派な小説家。「売れない」が頭に付くだけだ。
カチカチとキーボードを叩く音だけが鳴り響く。
「・・・・岐路に立たされているのだ・・と」
一時間もした頃、思わず声を出して書いたフレーズに指が止まる。
「・・・・岐路ねぇ」
呟いて、煙草に火を点ける。
ゆっくりと煙を吐き出し、広がるそれを眺めると、残りを灰皿に押し付けた。
「腹減った」
立ち上がって、母屋へと向かった。
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