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父親が倒れたのは1週間前の夜。
たまたま、家へ帰った憲吾がリビングで倒れているのを発見し、救急車を呼んだ。
幸い発見が早かった為、一命は取り留めたものの意識不明が続き、いつ容態が急変するんじゃないかと気が気じゃなかった。
母のときもそうだったからだ。
安定したと言われてからの急変。一度経験した失くす怖さを思い出し、手が震える。
その震える手を握り締め、父親が意識を取り戻すまでの間に、憲吾は覚悟を決めたのだ。
1週間後意識を取り戻した父親は、右半身に麻痺が残りリハビリ次第ではあるが、通常の生活は難しいだろうと医師から告げられた。
その言葉で完全に吹っ切れた。これまでの様に、好き勝手にはしていられない。
父親が目を覚ました朝、憲吾は「小説家」を辞めると父に告げた。
当然のように反対され、逆に迷惑だとさえ言われた。
その時の事を思い出し、伝える声が震える。憲吾は自分が父親に言われた言葉をそのまま繰り返す。
「母さんが死んだ時に思ったんだ。人は呆気ない、何て弱い生き物だとね」「あの人は、幸せだったのかってな。憲吾、お前の人生だ好きに生きろ。父さんはお前の人生までは背負えない」
ベッドに縛り付けられたまま発せられたその言葉は、麻痺によって上手く発音できていなかったにもかかわらず、憲吾の耳に重たく浸透していくようだった。
「そうか・・宗佑さんらしいな」
「・・・でも、あんな事言われたら、余計無理だろ?」
憲吾は拳を強く握り締めると、俯いた。
フーっと煙草の煙を吐き出す息遣いがして、「お前らしいな・・・」と大きな手が憲吾の頭を掴んでクシャクシャにした。
子供を慰める時に叔父がする仕草だ。そんな事をされたのは中学生以来だった。
そのまま、大きな手は憲吾の頭をポンと一つ叩く。
「よし!宗佑さんには俺からも言ってやる。環ちゃんの事は自分でちゃんとしろよ?」
後半の言葉が上手く入って来ずに、聞き返した。
「え?何で環の話が出て来るんだよ?」
「どうせ、ちゃんと別れてやってないんだろ?ロクデナシ」そう言ってにやけた顔で叔父が席を立つ。
からかうように言い捨てると、ひらひらと手を振って母屋の方へと帰っていった。
「ホントに、かなわねぇな・・・・」
憲吾が家を出てから三週間。環は実家に帰っていた。
喧嘩をして環が実家に帰った後、憲吾が家を空けた形だ。だから、この時の環はまだ知らない。憲吾に何が起きているのかを。
ガチャリ。
鍵を開けて久々にマンションに戻った環は、リビングへと続くドアを開けて「ただいま」と声をかけた。
返事がない。
「憲吾?いないの?」
さして広くは無い独身タイプのマンションで自分以外に気配が無い。という事は、あちこちを探さなくても憲吾がこの部屋に居ない事は明白だった。
一応、風呂場を覗き居ない事を確認する。部屋へ戻ると何か違和感を覚えた。何かが足りない。
荷物だ。憲吾のノートパソコンが無い。
(叔父さんの旅館かな・・・)
そう、思ってみるも、違和感が拭えない。
何故?すると、先ほど風呂場を確認した時に、チラッと目に入った洗面台が脳裏をよぎった。
急いでもう一度洗面所に駆け込むと、そこに在るはずの物が無かった。
歯ブラシだ。彼の歯ブラシ。
視線を泳がせその行方を探す。ゴミ箱に刺さった緑色の柄が目の端に映った。瞬時に寝室へと駆け出す。
クロゼットを勢いに任せて開け放つと、憲吾の衣類だけが消えていた。
全体の三分の一にも満たないそのスペースに、申し訳程度に置かれた彼の衣類。
見れば、憲吾が旅行用に使っていた大きめの鞄も一緒になくなっていた。
ぺたりとその場にへたり込んで、真っ白な頭でどうにかこうにか考える。
あの電話は本気だったのか、と。
「才能がない」そんな言葉で逃げ出そうと愚痴をこぼし始めた彼を怒鳴りつけて、環が実家へ姿を消したのが三週間前。
二週間前、憲吾からかかって来た電話に環は出なかった。
あの時彼は母親に「結婚しても幸せには出来ないし、将来も無い。だから忘れてくれ」と言ったんだそうだ。
何所の世界に、彼女の母親に別れ話の伝言を頼む馬鹿がいるというのだろう。環は呆れ果て、意地でこちらからは再度連絡を入れなかった。
しかしいくら待っても、再び家の電話も携帯も一向に鳴らない。
気になって今日自分のマンションに、憲吾がいるであろうこのマンションに戻ってきたのだ。
だのに・・・なんだと言うのだ。あんな別れ方が通用すると思っているのか。段々とはっきりしてきた頭で、沸々と怒りが沸いてくる。
(そうだ・・・実家と旅館に電話)行くところなど、他に無いのだから。
環は携帯を取り出すとまずは実家の番号にかけた。
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