前九年の役

1/1
4人が本棚に入れています
本棚に追加
/3ページ

前九年の役

《前九年の役、概要》 武家の棟梁の地位を父の源頼信から継承した源頼義は、なぜ関東の在地武士との主従関係を強固なものに出来たのか?と云う事について解説します. 《前九年の役、参考地図》 8960c02f-8d44-4184-b2ed-2b38861cce89 《前九年の役、時系列》 西暦1051年 陸奥の豪族安倍頼時が、大和朝廷への納税を拒否する. 陸奥守の藤原登任は、懲罰のために軍勢を送るが、安倍頼時の反撃に遭い敗走する. 朝廷は、藤原登任を罷免し、代わりに宮廷武官の源頼義を陸奥守に任命する. 西暦1052年 源頼義が、陸奥国府に着任する. 同時期に朝廷で恩赦が実施され、安倍頼時も免罪となる. 安倍頼時は、源頼義と和議を結び協調関係を築く. 西暦1055年 安倍頼時の長男貞任が、在庁官人を殺害する. このことが源頼義によって朝廷に報告され、安倍頼時は朝敵となる. 西暦1056年 朝廷が、安倍頼時の追討を命令する. 命令に従って源頼義は、関東の在地武士を陸奥に呼び寄せて追討軍を結成する. 戦闘を始めたが兵糧不足となり追討を停止する. 追討軍は解散されて、関東の在地武士は帰郷する. 西暦1057年7月 源頼義は、手勢を使って、安倍頼時との戦闘を再開する. 流れ矢に当り安倍頼時が戦死したので、追討は一応成功する. しかし長男貞任をはじめ、安倍一族は徹底抗戦の構えを崩さなかった. そこで源頼義は、安倍貞任の追討の許可を朝廷に要請する. 西暦1057年11月 朝廷は、安倍貞任の追討を許可する. 源頼義は、関東の在地武士を再動員して追討軍を結成する. 酷寒の中、戦闘を開始するが反撃に遭い、追討軍は敗走する. 戦況は膠着状態に陥り、そのまま数年が過ぎる. 西暦1062年 源頼義は出羽の豪族清原氏に援軍を求め、連合して追討軍を結成し、追討を開始する. 苛烈な戦闘が行なわれ、安倍貞任は戦死して、安倍一族は滅亡する. 《前九年の役、解説》 安倍頼時は、強力な軍事力を保有する陸奥国の豪族です.大和朝廷の軍勢と戦っても勝てると過信していました.陸奥国を自分の支配下に置き、そして朝廷への納税を拒否して、税金を自分の懐に入れていたのです. しかし武家の棟梁源頼義が陸奥守として国衙に着任した後は一転、朝廷へ帰順する意向を示し、納税義務を果たすようになりました. 源頼義は多くの郎党を従えていたので、直接対決となれば、自分たちの土地が戦場となり、勝っても負けても被害がでることになるので、それを避ける思惑があったと思います. また陸奥守の任期は4年なので、4年経てば源頼義は畿内へ帰るので、それまでの辛抱だと考えたとも思います.そして暫くの間、安倍頼時は源頼義と協調関係を保っていました. しかし安倍頼時の長男、貞任が在庁官人を殺害して仕舞いました.官人を殺したという事は朝廷に弓を引いたという事であり、安倍頼時は朝敵として追討を受ける立場に追いやられて仕舞いました.こうなれば致し方ありません、徹底抗戦です. 源頼義が関東の在地武士を動員して追討を開始しますが、一進一退の戦況の中、追討軍は兵糧不足に陥り戦闘続行不能となり解散してしまいました. その結果、陸奥国は安倍頼時の支配下に戻りました.当然、安倍頼時は納税を行なわなくなりました. 陸奥守の一番重要な役目は徴税ですので、源頼義はこの状況に困り、少ない軍勢で戦闘を無理矢理に再開しました. 安倍頼時がたまたま流れ矢に当り死亡しましたが、安倍貞任が安倍一族の新しい統率者となり抗戦を継続しました.戦況は、安倍一族の軍勢優位のままでした. 朝廷は、税金が集まらないと困るので、安倍貞任の追討の命令を出しました. 朝廷の命令の下で戦闘に勝てば、朝廷から武士に褒賞が出ます.褒賞目当てで関東の在地武士が源頼義の下に再び集まって来ました. そして追討戦を再開しましたが、反撃に遭い又も敗走してしまいます.追討軍劣勢のまま、膠着状況が続きました. 源頼義は切羽詰まり、このままでは自分の立場が無くなると考え、出羽国の豪族清原氏に援軍を懇願しました. 清原氏は、この機に乗じて安倍氏を排除すれば陸奥国への支配拡大が見込めると考えて、援軍を送ることにしました. 源頼義は、援軍の御蔭で追討戦を続行することが出来て、安倍一族を倒すことが出来ました. 追討に成功した源頼義は、郎党たちの褒賞を朝廷に対して強く要求しました. その結果、多くの郎党たちに位階・官位が与えられました. 源頼義郎党、つまり関東の在地武士は、自分たちのために朝廷に褒賞を要求する頼義を有り難いと思ったことでしょう.武家の棟梁として頼りになると思ったはずです. 当時、一騎討ちが武士の戦い方でした.しかし安倍氏追討戦では、奇襲や籠城戦、兵糧攻め火攻めなど苛烈な戦闘が行なわれました.以前にはない凄絶な殺し合いになったのです.同じ釜の飯を喰い苛烈な戦闘を潜り抜けたと云う経験の共有が、源頼義と関東の在地武士との主従関係を強固なものにしたのです. (了) 《前九年の役、参考系図》 a557b914-d967-46f3-813e-81f7d0b51583
/3ページ

最初のコメントを投稿しよう!