平忠常の乱

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平忠常の乱

《対象読者》 源頼信と源頼義(子)と源義家(孫)に関心のある人. 《平忠常の乱、概要》 大和朝廷の宮廷武官に過ぎなかった源頼信が、どのようにして武家の棟梁となったのか?と云う事について解説します. 《平忠常の乱、参考地図》 308df7dd-57a1-4f4f-b9b9-cf4daa61e57a 《平忠常の乱、時系列》 西暦1028年5月頃 地方国衙の重税に耐えかねて、関東の在地武士が平忠常をリーダーとして徒党を組み、安房・上総で武装蜂起する. 西暦1028年7月 大和朝廷は、平忠常の蜂起に驚き、乱鎮圧のために宮廷武官の平直方を追討使に任命する. 西暦1028年8月 平直方が、乱鎮圧のために隋兵をつれて関東へ出発する. 直方は、関東に到着するが乱鎮圧の活動はせずに、専ら兵糧米徴収を名目に関東各地で収奪を繰り返し私腹を肥やしていた. 西暦1030年7月 大和朝廷は、平直方の無為無策を知り、追討使を解任する. 西暦1030年9月 大和朝廷は、代りの追討使に宮廷武官の源頼信を任命する. 源頼信は、甲斐国に下向して、関東の在地武士と協同して追討を遂行する. 西暦1031年4月 平忠常は、頼信の説得に応じて、降伏する. 源頼信は、乱の鎮圧により武名を上げ、関東の在地武士と主従関係を結んだ. 《平忠常の乱、解説》 その頃、大和朝廷で実権を握っていたのは、宮廷官僚の藤原道長でした. 宮廷官僚は、官職や位階を求める者から賄賂を受け取り、見返りに便宜を図っていました. 道長に取り入った者の中のひとりが、源頼信です.頼信は、道長に賄賂を贈り、各地の受領に任命されました. 受領とは、税金の徴収係のことです.受領に任命されると一族郎党を引き連れて日本各地の任命国へ赴任して、その国内で農場経営をしている在地武士から徴税しました. その時、その税金の一部を自分の懐へ入れて、残りを朝廷へ送ったのです.幾度か受領に任命されると莫大な私財を蓄える事が出来ました. なぜ、朝廷に徴税権があったのでしょうか.天皇が国王だったからだと思います.歴史用語で云えば公地公民と云う事です.天皇の土地に住んでいるのだから朝廷に税金を払えという理屈です. 初めは全員が税金を払っていたのですが、11世紀頃には既に荘園と称する私有地が考え出されていて、荘園の所有者は税金を払いませんでした.これは天皇の土地ではない、つまり個人の所有するものだから税金は払わなくて良いと云う理屈です. 個人といっても摂関家のような貴族のことです.それはともかく、公地については朝廷から派遣された受領が在地武士から税金を取り立てていました. その中でも、安房・上総での徴税は過酷だったのだろうと思います.そして重税に対する不満を持った平忠常たち在地武士が武力闘争を仕掛けたのです.つまり税金の不払い運動です. 税金が入らなければ朝廷の財政は困窮してしまいますので、この様な場合には軍隊を派遣して徴税を行なったのです.その軍事指揮官が追討使です. 初めに任命された平直方は追討使として無能だったので、解任されました. 次に任命された源頼信は特殊能力を持っていました.交渉力と云う特殊能力を持っていたのです. 源頼信は、平忠常と交渉をして反乱軍を無血投降させ、関東に平和を取り戻しました. それを見ていた関東の在地武士は、源頼信を頼りに出来る人物だと認識したのだと思います. そして多くの関東の在地武士が、源頼信と主従関係を結びました.これには、源頼信の郎党になっておけば、何か問題が起きたときに頼信の庇護を受けられるとの意図があったと思います.つまり在地武士は頼信の後ろ盾を期待したのです. こうして、畿内の宮廷武官に過ぎなかった源頼信は、関東の在地武士の親分、つまり武家の棟梁となったのです. 《平忠常の乱、参考系図》 665e04bc-18ca-4f45-b16c-5c569687a8f2
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