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地下の階段
「宝玉さまへの皇太子位の移譲の式の件でございますが……」
「きゃっ」
宗人府の官吏に衣装についてのしきたりを歩きながら聞いていたシュンランが書卓の足に躓いて官吏に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
「申し訳ありません、わたしったら」
恥ずかしそうに顔を赤くしてシュンランは官吏から離れる。官吏のほうもなんだか赤くなっていえいえともごもご言いながらもシュンランを抱きとめていた手を戻した。
「だいたいの事は申し上げましたが、質問とかありますか?」
「今教えていただいた物を揃えてまた確認させていただいてもいいかしら?」
おもねるように見上げると「も、もちろん」と官吏は嬉しそうに頷く。
「では、お願いします。三宮さまのご支度はお任せくださいね」
「喜んで」と帰っていく官吏を見送ってシュンランは隠し持っていた物入れを開く。さっきぶつかった時、官吏の腰に巻いた皮の紐の間から物入れを抜き取っていたのだ。
そこには宗人府の堂室の鍵が入っていた。それを小麦粉に水を入れて練った物に押し付けて戻す。
そうしておいてから、シュンランは先程の官吏の後を追った。
「あ、あの……これを落されてますわ」
振りかえってシュンランが差し出す物入れを見て官吏は目を丸くした。そんなに簡単に落ちるものでは無いからで、なんで気がつかなかったのだろうと思っているのがシュンランにもありありと分かる。
「中に大事な物が入っていたんです。ありがとうございます」
「さっき、わたしがぶつかったせいですわ。ごめんなさいね」
ほっとした顔の官吏の手にシュンランがにっこり笑って物入れをのせた。夜になったらさっきの鍵で中に入ってみるつもりだ。
にしても、キサヤは謎だらけだ。
始まりは、三宮がどこかで見つけてきた伽の相手――今までそう思っていたけど、思い返してみるとキサヤは突然現れた。
だいたい、三宮が寝所に女性を入れるのは珍しく無かったがそれは一度きりのことが多く、執着する者など現れなかった。それが初めて男を寝所に入れたのがキサヤで、結ばれてからはもうキサヤ一筋。
宮中には美妃が多い。女官だって一応十人並み以上だろう。だが、キサヤみたいな美形となるとおいそれとはいない。性格も良くて器量よしで、頭も良いとなれば三宮が惹かれるのも仕方ないのだろう。
だが、完璧だと見せる裏側についてはどうなのか。きっとそれは誰にも知られてはならないのだろう。しかし、だからこそ今何かに巻き込まれそうになっている。
それなら自分はそれを探るしかない。三宮に関わることを見逃すわけにはいかない。だってわたしは――。
「ソンミン、久しぶり」
その声にはっとして後ろを見ると、柱を境に若い女官が二人話していた。シュンランが柱の反対側にいることなど気付かず、仕事をさぼって世間話らしい。
「先宮はもう寂しいものよ。女官も二宮に大勢移ったし」
「そうなの? じゃあ同期のミャオは?」
「知らないの? 二年近く前に宮中から出たのよ」
絶句したソンミンと呼ばれた女官に、二宮から来たらしい女官が話を続けた。
「一宮では、『飾りの妃』のお世話をする女官を募ったの。それに五人の女官が希望してね、その中にミャオもいたってわけ」
「ねえ、どうしてそのミャオが宮中を出て行くのよ。っていうか、『飾りの妃』って何?」
ソンミンの問いはシュンランの問いでもあった。いつの間にか固唾をのんで話に聞き入っている。一宮や、二宮は皇太子を出している宮だ。そのために知られている『飾りの妃』の話も三宮では聞いたことが無い。
仕方ないわねと二宮の女官が話しだす。
「『飾りの妃』っていうのは、皇太子の婚姻の時だけ国中から選ばれた美形の少年を形式だけの『妃』に仕立てるの。その間、少年の姿は皇太子でさえ見られないらしいわ。だけど、お世話する女官はどうしても顔とか体とか見ちゃうでしょ? それを漏らさないために慰労金を貰って秘密を守る誓いを立て、宮中から出るらしいの」
「慰労金ってすごいのかしら」
「結構すごいらしいわ」
話がお金の事になってしまい、シュンランはその場から離れた。あれは、キサヤのことだ。すぐにピンときた。キサヤは一宮の『飾りの妃』だったに違いない。それを三宮は奪ったのか?
そこで火事があった日、キサヤがまだ小さい少年を世話してくれと運んで来たのを思い出した。
少女かと間違えるくらいの細面の綺麗な少年だった。なぜ、忘れていたのか。
「『飾りの妃』」は一人じゃないの?
とにかく、宗人府にその秘密があるに違い無い。
顔見知りの職工に型を見せるといつもは気安い職工が暫く無言になる。
「なあ、これはどこの鍵なんだ? 変な事にならないんだよな」
「知らないほうがいいと思うわ。いつもみたいに貴金属の飾りの修理だと思って作ってくれないかしら」
金を包んだ包みを手渡すと、職工は一瞬表情を曇らせたが「仕方ないな、夕刻前には作っておく」とぶっきらぼうに言って作業を再開した。つまり、情は介在しないほうがいい。詳しいことは知らない方がいいこともある、今回はそういった類の代物だということが彼には分ったのだ。
「いったい、どこを見ればいいのかしら」
来てはみたものの、暗い室内は勝手が分らず、手燭の灯りだけがたよりだった。
手当たり次第にそこら辺を探ってみる。
書庫になっているそこは、書棚が等間隔に天井から作りつけられていた。奥へ奥へと向かっていくと壁にぶつかった。
だが、何か釈然としない。区切られているのと暗いために良くは分らないが、奥行きが足りないような気がしていた。大事な物があるために壁が厚い、そうなのかもしれない。壁に灯りを近づけると、ぼんやりのした灯りの輪の中に浮かび上がったのは寄木で作られた壁画のような物だった。
「綺麗な物ね」
そんな感想を漏らしたものの、いつまでもここに籠っているわけにもいかない。他を探さねばと体の向きを変えようとしたシュンランの肩は後ろからがっしりと掴まれた。
「ぎっ、ぎゃ……」
乙女らしくない大声を上げかかったが、即座に口を塞がれる。
「黙れ、そこで何をしている」
押し殺したような低い声が頭の後ろから聞こえた。
見つかった? まだ何も見つけて無いのに。このまま捕まるわけにはいかないと、シュンランは咄嗟に自分の口を塞いでいる手に思いっきり噛みつく。
この後、頭を殴り昏倒させれば記憶も吹っ飛ぶかもしれない。とにかく背後の気配を読めなかった自分の落ち度だ。
「いっ」
相手が怯んだところで振り向いて手燭を向ける。そこにいたのはロン・ウェンユウだった。
「ロン先生? あなたこそなんでここに?」
いててと手を振りながらロンは潜んでいた女官が三宮の女官長だと知って目を丸くした。
「キサヤの事についてちょっと調べている。おまえはどうなんだ、女」
気の強い女だと思っていたが、気が強いというより狂犬だとロンはシュンランを睨みつけた。せっかく上手いこと鍵を手に入れて来てみれば、先客がいたのだ。面白いわけはない。
「女って何よ、わたしはシュンランという名前があるのよ」
いきなり言葉尻を捕えられてロンはむっとするが、ここで喧嘩をしている場合じゃないと思い直す。
「シュンラン、悪いがここはわたしに譲って帰ってくれ。大事な事を調べているんだから」
「ちょっと、わたしだって大事な調べ物なのよ。第一、わたしのほうが早いんだから遠慮するのはロン先生でしょ」
「ええい、煩いっ。いいか、そこに居ていいから、邪魔しないでくれ」
言い合いするのもうっとおしいとロンはシュンランを押しのけて壁に触れた。
「手燭で壁を照らせ」
命令しないでよと思いながらシュンランは手を伸ばして壁を照らす。場所替えをしようかと思っていたことなど忘れて前に陣取ったロンの背中越しに壁を見た。
「龍ね、これは」
「教えてもらわなくてもそれくらいわたしだって分る」
「あら、そう?」
くそっ、集中できないと愚痴りながらロンが指で辿っていくと、龍は蝙蝠のような翼を広げて丘の上に立っている図なのが分ってきた。
一般に知られている龍とは違うこの龍は、この国にとっては神獣だった。創始の帝に仕えて帝の国づくりに協力したという元は天帝の騎獣。
科挙を目指す者なら誰もが勉強している創始記に出てくる龍、応龍。それが丘の上で冠を一人の男に手渡そうとしている。
「創始帝……か」
「ちょっと、わたしにも見せて」
「お、おいっ」
シュンランに押されて壁に触れていた手に力が入る。と、そこがすっと動いていく。もしかしてこれは隠し扉なのか。
ロンは新しい宗人府の堂室には何も無いと思っていた。焼けてしまったのは上物だけ。本当に大事な物は下にある。
動いた木のすき間に取っ手が現れた。壁は引き戸になっていて、引き上げて横に引くとぽっかりと空いた暗闇に下に向かう階段が浮かんでいる。
「やはりな」
宗人府は儀式や祭事を取り仕切る役所である。そのため火事や、他の天災にも失われないように地下に隠し部屋があるのではと思っていた。
「手燭を貸せ、見てくる」
ロンが後ろに手を出すが「嫌よ、わたしも行くに決まってるでしょ」という声が返ってきただけで出された手が空を切った。
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