大公の正寝

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大公の正寝

 早朝、ロンが居たのは大公の正寝。 「急な面会に応じていただき、感謝します。大公殿下にお聞きしたいことがあります」  まだ夜が明けきって間が無く、ここは大公の執務室でもない私室だ。誰も他に使う者がいないとは言え、後宮でもある。  一介の文官が名前だけとは言え、後宮に入るということは大変な勇気が要る。だが、これは表で話せることでは無い。そう思い、ロンは二宮の後宮に押しかけたのだ。渋る女官たちに伝言を託し待っていると、中年の女官が「お会いになられます」と一言言い放ってくるりと背中を向けて歩き出した。  女官といえど、帝や大公、妃付きにもなると横柄になるものが多い。くそっと小さく呟いてロンはしんと静まり返った後宮内を進んだ。 「こちらへどうぞ」  女官は正式な礼を取ると後ずさりしながら廊下に出て行った。代わりにロンが頭の所に手を持ちあげて礼を取りながら部屋に入る。  がちがちに緊張しているロンに対してセイアは夜着の上に長袍を肩がけにして長椅子にゆったりと座っている。 「ロン・ウェンユウ、あなたの事は趙や陛下から良く聞いています。今は三宮さまの侍従の教育を担っているのではなかったですか」 「はい、その通りです殿下」 「手を降ろして椅子にお座りなさい」  おずおずと顔を上げてセイアの様子を見た途端、ロンの背中に汗が流れる。いつもの凜とした官僚のセイアとまるで違う。甘い夢の中にでもいたのだろうか、淡い夜の名残を体にまとわせたセイアはまさに後宮が似合いすぎる。  長く艶のある黒髪は肩から胸元に落ちている。白い絹の夜着は体の前で合わせるようになって腰で緩く結ぶ紐で軽く止めてあるだけで、着物の合わせ目から鎖骨が見える。たったそれだけの露出なのに恐ろしいほどの色っぽさだ。  ――魔に魅入られる、そんな危険すら感じる。  先帝の『飾りの妃』、何ですぐに気がつかなかったのかと今なら思う。怖いほどの美貌で圧倒される。 「キサヤのことで、いや、『飾りの妃』のことなんですが」 「『飾りの妃』のこと?」  ロンが『飾りの妃』の名前を出した途端にセイアの顔つきが変わる。いつもの文官の顔? いや、それとも違う。  取り澄ました表層の下から現れた『なにか』の顔だった。 「殿下は先帝さまの『飾りの妃』でございましたよね」  がたんっと言う音と背中が折れるかと思う痛みに、一瞬ロンは何が起こったのか分らなかった。  目の前にセイアの顔があって、長い髪が自分の胸に垂れている。息がしにくいのは、セイアの手が胸ぐらを掴んでいるせい。身動きが取れないのは彼が自分の腰に乗り上げているせいだと気付く。  瞳の光彩に金色が混じっている。さっきまでは濡れたような黒い瞳だったのに。一体何が起こっているのか?  そして、セイアの片方の腕は大きく振りあげられていて、指を揃えてまっすぐにのばされていた。その指の先には金属めいた光を放つ長い爪がロンに狙いをつけていた。 「どこでそれを知った?」 「そ……宗人府……です。地下にあった隠し部屋にあった人別帳に」 「地下?」  地鳴りかと思うほどの音にびくついたロンは、それが目の前のセイアが出しているのに気付いて震えあがった。  身の危険――宗人府に入った時もそれは頭にあったはずだが、何か人ごとだと思っていたのに。今、ロンは死への恐怖に声も出なくなっていた。 「セイア、止めなさい」 「陛下」  振りおろそうとしたセイアの手が後ろから掴まれ、もう片方の手がセイアの腰に回って引き上げるように持ちあがる。 「離してくださいっ」 「この文官を殺しても仕方ないだろう。セイア、落ち付きなさい」  凝った刺繍のある長袍を着た長身の男。肩を少し越すくらいの髪は無造作に一本に括ってある。髪を結って冠をつけていないだけで見誤る訳は無い。あなたは――、 「陛下? 陛下でいらっしゃいますよね。おいでになっていらしたんですか」  後宮にいることが許されるのは本来帝だけなのだから、聞くのはおかしいとは思うが聞かないわけにはいかない。なぜなら、先帝の『飾りの妃』であるセイアと今は寝所を共にしているのだから。 「ああ、ロン・ウェンユウ。セイアが大公なのは別に名前だけじゃないからね」  あっさりと帝は肯定すると暴れるセイアを引き寄せた。 「ロン、キサヤの勉強は進んでいるか」 「は、はい。順調に」 「やはり、趙に言って君を先生にしたのは良かったようだな。三宮が南へ下る頃までには基礎を終わらせるように頼むよ」  臣下の者にまるで友人に世間話でもするみたいに帝は穏やかな顔で語りかける。帝の腕の中でセイアは腕を振り回していたが、次第に大人しくなっていく。  亡くなった一宮は気性が激しく、自己中心的な男だった。それとは対極的な人物だと思われている二宮。  垂れ目がちのいつも微笑んでいるような帝は、誰に話しかける時もていねいで優しい。だが、この一見柔らかい衣の下で、やることは大胆で容赦ない。今までの利権に胡坐をかいていた者は心底、いつ自分に鉄槌が下るかとびくびくしているのだ。  物事を決める時には慎重に是非を決めるが、一旦決意すると何があっても翻さないという頑固な一面もある。  ロンが師と尊敬している宰相の趙が心酔している人でもあった。 「で、どこまで知っているか教えてもらおう」  二宮は長椅子にセイアを座らせると自分はそれを支えるように真横に座ってロンを向かいの椅子に座らせた。  では、とロンは大きく深呼吸して二宮を見る。こうやって、皇族とさしで話をする日が来ようなどとは思いもしなかった。  これを故郷の父や母が知ったらどう思うだろうと意識がそこに飛んでいく。首都で手広く商売をしていると言っても貴族でもないロンの親がこの国の皇帝に会うことは、この先天地がひっくり返っても無い。その息子が高級官僚でも難しい帝への直答を許されている。信じてはもらえないだろう。  そこまで考えていて、その帝を前にぼけっと考え事をしている自分に気づき、ロンは赤くなった。 「人別帳には、初代皇帝の『妃』から綿々と名前が書きこまれておりました。年齢は十代はじめくらいの少年が多く、彼らの名前と出身地と家族構成が記入され、右端には別の名前らしき記入もありました」  ロンの最後の言葉にセイアの肩がびくんと動き、それに気付いた二宮が宥めるように肩に手を回す。 「君はそれをどうみる?」  先を促すように二宮が言った。 「はい、何人かの『妃』に同じ名前がみられました。わたしが思いますに、これは『飾りの妃』になった者の種別を現しているのではと思っております」 「種別……か」 「はい、『飾りの妃』に選ばれた者は、美醜で選ばれたのではないと思っております」  ロンが言いきって二宮を正面から見据えると、二宮は顎に手を当てて考え事をするように視線を隣のセイアに向ける。  朝日の差し込む正寝は、薄暗かった時はまるで罪人を匿うような温情を見せていたのに、白く照らされた部屋の中は隠し事など許されない詰問の場に姿を変えていた。 「美醜でないとすれば、何だというのだ?」 「恐れながら、『飾りの妃』は人間では無いと思います」  その応えを予知していたのか、思わず立ち上がろうとしたセイアを二宮が回した腕で制した。  驚いて逃げ腰になったロンに二宮が大丈夫とセイアを腕に閉じ込めてゆっくりと頷く。それは、先を続けろという意味だとロンは額に浮いた汗を右手の袖で拭いながら椅子に座り直した。 「創始帝の右腕と言われた銀月公の名前の端に『応龍』とありました。応龍は、帝が天帝から賜ってこの国を統一するのに助力し、その後帝の元に下ったとある伝説の生き物です」  そこまでは創始記に書いてあるもので、科挙を受けようと思う者ならば最初に目を通している。ここからが問題であるとロンは密かに気合を入れた。 「その銀月公と応龍が同一であるとするなら、ここに書いてある『妃』はすべからず、人間であるわけが無い。そうではないでしょうか。皇族は婚姻時に魔物を従属させて、魔力を得る。それが『飾りの妃』の正体なのではないかとわたしは思います」  一息に言い切って、ロンはそうっとセイアに視線を送った。今、自分が言ったことは、大公が人間ではないと言っているも同じなのだ。自分はここから生きて出られないかもしれない――ロンは今更ながら自分の暴挙におののいた。  顔色を失くしたセイアを抱きながら、二宮は「よく調べたものだ」とにっこりと笑った。 「だがロン・ウェンユウ、わたしの伴侶の名誉のために一つ訂正させてもらう」  二宮の手がロンの顔の前に伸びたかと思うとぱちんと頬を叩かれた。 「陛下?」  ロンは呆けたように二宮を見上げる。 「我々が『飾りの妃』から妖力を得ていると言うのは間違いでは無い。昔、皇太子は婚姻時、三人の『妃』を娶ることになっていた。その一人は魔族の女性と決まっていたらしい。セイアら『飾りの妃』たちは、魔族という種族なのだ。だが、人間であることには違いない」  いいかと念押しされて、ロンは無言で頷いた。 「魔族という言い方だって、我らが勝手につけた名前だ。大昔、実際この国の南を支配していたのはこの種族だった。混血も進んで今はもう我々とは見分けがつかないし、女性に至っては表には魔族の性は現れなくなっている」  だから男性なのか。ロンは納得しそうになって、いやと首を振った。それにしたって歳が若すぎるのではないか?  ロンの疑問に答えるように二宮が話を続けた。それは今までのさばさばと小気味よく話していた二宮の口調とは明らかに違う、石を呑んだように苦しそうな声だった。 「そうだ、少年と無理やり番い、自分の眷属にすることが婚姻の儀式だ。官吏になれると思ってやってきた、何も知らない少年を凌辱する、それが長年続く『飾りの妃』の正体だ」  二宮が回した腕にセイアの指が食い込む。ぎりぎりと歯ぎしりする音が静かな部屋に響いた。  セイアは先帝の『飾りの妃』だった。ということは、二十年余りそんな生活を続けていたという事だろう。 どんな思いで……いや、自分にはどんなにしても分り得ないとロンは首を振った。ここに来るまで自分が魔族だと知らなかった少年。  立身出世できると期待に胸を膨らませていたのだろうか。  選ばれた事に感謝していたのだろうか、その瞬間まで――。  長い王朝の奥底に隠されていた傷。薄皮が張り、表面は綺麗に装っていたとしても中が膿んでしまっていたのだ。華やかなこの宮中の中で秘密にされていたものは、恐ろしく腐臭がする行いだった。  ロンはこの先を続けていいかと伺うように二宮を見た。セイアは今や二宮にしがみついくように手を二宮の首にまわしている。腕を上げたせいで肩にかけていた長胞は微かな音を立てて床にすべり落ちた。下に着ている一重の着物の袖がたくし上げられ、白くて長い腕が二宮の首に巻きついているさまはなんだか、見てはいけない物のように淫微でロンは向けた視線を慌てて逸らせた。 「ロン、話はそれだけか」  二宮は動揺しているセイアを落ち付かせたくてならない。本当なら話を打ち切ってセイアを寝台に寝かせてやりたい。だが、これはあった事への確認では無いのだろう。ロンの目的はキサヤの事だ。  こうやって大公の寝所に忍んで来るのは急ぐ理由がある。ここはセイアには酷なことになるが耐えてもらわなければならない。 「話を続けなさい」  二宮は自分の両腕でセイアを抱えて膝の上にのせるとロンに話を促した。合わさっている胸、触れている腕からセイアの抱えている苦悩と辛い過去の思いの何割でも引受けてやれたらと思う。  セイアは甘えるのが不得意で、自分で何でも抱え込んでしまう。それは自分も辛いのと同時にそれを見守る相手も辛いのだと分って欲しい。  一緒にいるということは良いことばかりを共有するのでは無く、負の部分も分かち合うことだと思う。そうでありたいと二宮はセイアの背中に回した手に思いを込めた。  一方、目の前で抱き合っている二人に動揺しながらも、これからの話が大事なのだとロンは咳払いした。 「三宮の女官長によると、新人の女官の一人がキサヤの動向を気にしているらしいのです。先宮妃はその時、何かを仕掛ける気なのではないかと」 「宗人府が関わっているなら、キサヤは殺される」  セイアが叫ぶように言った言葉に二宮が頷いた。 「な、何でです?」  因縁をつけてキサヤを捕えることはあるかもと思ってはいたが、まさか殺すなんて。ロンは驚いて立ち上がった。 「普通、『飾りの妃』は候補が三人いる。婚姻前に一人に決められて儀式が終わると、選ばれなかった他の二人にはそのまま何も教えることは無く、褒賞金を与えて故郷に帰す。今回はキサヤ以外の少年に決まったが、キサヤは『飾りの妃』の秘密を知ってしまっている。宗人府は『飾りの妃』の秘密を守るために彼を殺すつもりだと思う」 「何でキサヤが秘密を知っていると?」  ロンの質問に二宮がうっと一瞬声を詰まらせた。 「それは――彼が獣化しているのを見られたからに違いない。皇族と交わらなければ魔族は獣化することは無く、他の人となんら変わらない一生を送ることになる」 「獣化?」  獣化って、何だ? まさかあの壁画のような姿に? ロンはキサヤが龍に変わった姿を想像して固まった。 「そうだ、魔族は身の内に獣性を隠している。まだ覚醒して間が無いキサヤは感情が高ぶると獣化を抑えられないのだろう」  感情が高ぶる? 二宮の言葉を反芻していたロンは、キサヤの獣化の原因に思い至って体がかっと熱くなってしまった。キサヤにしろ、目の前のセイアにしたってなんでこんなに人の劣情を煽るのか。それが、魔族の特徴なのだとしたらまったくやっかいなものだ。  食べられるのを恐れている草食獣が肉食獣にとっては堪らなく魅力を感じるように、人間の欲をかきたてる、それが無意識なのだとしたら最悪だ。  皇族を虜にすることで先祖がえりするということなのか。  そうか……だから寝所だったのだ。 「どういたしましょうか」 「そうだな」  二宮はゆるゆると抱いているセイアの背中を擦りながら思いをめぐらせた。  先宮妃が絡んでいるとなると荒っぽいことはできない。彼女は亡き一宮の母親であると同時に将来帝になる宝玉の祖母にあたる。  彼女の矜持を砕くことは容易いが、後に遺恨を残すだろう。ここは宗人府に責任を取ってもらうのがいい。そして、先宮妃にはもう手出しできないように釘を刺しておくべきだろう。 「ロン、宗人府の地下にもう一度行って『飾りの妃』に関する書物を全て持って来てくれ。今日、宝玉の皇太子の立戴式の説明がある。官吏が出払っているだろう。そして、準備が整うまでキサヤを三宮の寝所に入れないように三宮の女官長に伝えてくれ」 「……承知しました。わたしの仕事はここまででしょうか」  そうであったらいいと思うロンは根っからの事務屋だ。体を使うことはもうごめんだと期待を込めて二宮を仰ぎ見た。  が……希望はすぐに打ち砕かれる。 「残念だが、秘密を知る者は少ないほうがいい。最後まで付き合ってもらう」 「あ……そうでございますよね」  くそっ、どこが引き際だったのか? いや、端っから逃れられなかったのか。ロンはこっそりとため息をつきながら部屋を出た。
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