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黄燐
残された三宮にリュウと呼ばれた官吏が持っていた官服をおずおずと差し出した。
「これに着替えるのか?」
「は、はえっ」
俺、今「はい」ときちんと言えたか? リュウは自分の口を叱りつけたくなる。あれから気になって宗人府の事を調べ回っているところをどういう理由でか、宰相の趙の知るところとなり昨晩は厳しい取り調べを受けたのだ。
ロンとの関わりを必死で訴えたのが功を奏したのか、やっと拘束を解かれたと思ったらいきなり趙本人がやってきた。
「気になっているなら、最後まで付き合ってみるかね?」
国始まって以来の切れ者と言われる宰相に、にっこりと笑い掛けられて思わず、はいと言ってしまったらこのザマだ。背中には物騒な物を背負わされて宮様と先宮に侵入させられるはめになってしまった。
もしもの時は宮様を命に代えても守らねばならない――のか、やっぱり?
「なんで、はいって言ったんだ、俺のばかばか」
急にお偉方に目をかけてもらったと思ったら、それは人生の終わりだった……なんてことになったらどうする?
「おい、着たぞ。手順を話せ」
しょげているリュウに厳しい声がかかる。帝である二宮さまはあんなにも優しげなのにこの三宮さまはきつい顔つきでおまけに声も冷たい。同じ銀色の尊い瞳の色も、表情一つで慈愛の光にも冷酷にも映ると思った。
「仕事をしてるふりで先宮に行き、先に女官の控室に睡眠作用のある饅頭を差し入れておきます。立ち番の兵にも振る舞い、一人が見張りで一人が作業するのがよろしいかと」
ふんふんと聞いていた三宮は「じゃ、おまえが見張りだ」そう言って部屋を出て行く。
「あ、ちょっと、そんな……宮様にそんなことさせるわけにはっ」
そう言った途端に戻ってきた三宮がリュウの喉元に指を付きつける。
「大きな声で宮様、とか今度言ったら殺すからな」
「え? は、はい。じゃ、じゃなんてお呼びしたら……」
「サクでいい。サクと言え。様なんて付けるなよ、怪しまれる」
びしりと言い置いて三宮は顎をしゃくってリュウを見る。
「へ?」
「へ、じゃないだろっ。わたしは顔に特徴があるんだ。おまえが先に立ってわたしを隠せ」
そうだったとリュウは「では失礼してお先に」と三宮の前に出て廊下を進んだ。
だがこのもやもやする気持ちはどうしたものか?
――やりにくい。普段から人に命令することに慣れている三宮の言動全てが上から目線なため、連携が取れるかも不安なリュウだった。
背中に荷物を背負っているが、それもいつもの状態なのか、二人を気にする者はいなかった。
先宮の立ち番が居眠りしているのを見て、リュウはほっと胸を撫で下ろした。帝である二宮から賜った睡眠薬は良く利いたようだ。懐に強力な睡眠薬をしみ込ませた布も持っている。饅頭を食べなかった女官や官吏に気づかれたら使えと趙に渡されたのだ。
この背中に背負っている物騒な物も二宮の薬師から受け取った。二宮は薬種を扱う宮だったために帝である二宮も薬品についてはかなりの知識がある。
「素手で扱わなければそんなに危険ではありません。自然発火すると言っても時間がかかりますからね。先程まで水の中で保管しておりましたから、今からとなると発火するのは陽が落ちてからになろうかと思います」
「君はこれを何に使うのか知っているのか?」
二宮の薬師が淡々と説明するのを必死で聞いていたリュウが薬師に聞くと、薬師は首を横に振った。
「いえ、聞かないほうがいいこともありますから」
ああ……なんで俺はこういう態度に出られなかったのか。ロンがいけないんだ。今まで知らんぷりしてたくせに急に会いに来るもんだから気になってしまった。そうだ、あいつに会ったら文句を言ってやる。
「生きてたらの話だけどな」
渡された黄燐の化合物の包みを膝に抱えながらリュウは、はあと息を吐いた。
「包みを渡せ、リュウ」
その声に現実へと連れ戻されてリュウは慎重に包みを降ろすと三宮に渡す。
「包みは破らずに底に積むようにと言われております」
「分った」
やんごとない皇子さまだと言うのに、三宮の身のこなしは兵士のように滑らかだ。人様の宮に侵入しているというのに息も乱さない。まさかこんなことに場馴れでもしているとでも言うのだろうか。
「あの、み……」
「み?」
じろりと睨まれてリュウは「サ、サクッ」呼び直す。
「なんだ?」
「あ、あの、気をつけて」
またもやきつく言い返されると思ったら、三宮はにまりと笑って包みを抱えて堂室へ消えた。
壺は大きな対になった赤い柱の横にそれぞれ置いてあった。高さが三宮の肩くらいで周りは両手で抱えてやっと届くくらいだ。自分の側に倒すように体全体で重さを支えながらゆっくりと壺を倒す。中で重たいものが倒れる音がしたが出てくる様子は無い。
「くそっ、だめか」
三宮は堂室内を素早く見回した。壺の下に台を置いて斜めにすることに決めて立ち上がる。思ったより時間がかかりそうな気配に舌打ちした。
「まだかなぁ」
もう先宮妃が戻ってくるのではないか。あれから恐ろしく時間がたったような気がしてリュウは何度も門を伺っているが、実はそれほど経っていないのだろう。
自分は待つより動く方が性に合っている。やっぱり、そうだよ、なんでその俺が見張り役なんだよと堂室内の三宮に文句を言ってみる。もちろん心の中でだが。
中の物を出して、持ってきた物を詰める。それだけだ、もう少しで終るに違いないと自分でやっているように頭で時間を追ってみるが、終って帰途についているはずの自分はさっきから一歩も動いていない。
「ああ……何やってんだ、俺と代われと言いたいよ」
ため息をついていたリュウの耳に足音が聞こえた。
誰か来るっ。
一挙に弛緩していた体が緊張感でみなぎる。戸口に体を隠して首をのばすがまだ姿は見えない。が、足音からして二、三人はいそうだ。金属の音が聞こえるということは番兵かもしれない。交代の時刻だったとしたら――。
「サク、兵が何人か向かって来る。わたし一人じゃ交わすのは無理だ」
逃げろと短く警告するが、三宮からの返事は無かった。夢中になっていて聞こえてないのかもしれないと舌打ちしそうになるが、仕方ないとリュウは身を顰めて彼らを待つ。
「おいっ、どうした?」
「薬でも盛られたか? 中に入るぞ」
ばたばたと大きな音がして番兵が入って来たと同時に押し出された長椅子に足を救われて一人が倒れた。その倒れたところにリュウが懐から薬をしみ込ませた布を顔に押し付けると兵士はぐったりと床に伸びた。だが後ろから来た兵士には通用しない。
「おまえ、何者だっ」
構えていた槍がすっとリュウの目の前に突きつけられる。
――ここまでなのか? いや、まだどうにかできないか……。
「名を名乗れ」
「言っても知らないだろ」
「何ぃ?」
小ばかにしたようなリュウの態度に兵士が槍を振り降ろす。それを間一髪で避けたリュウの背中から「どけ」と声がした。
横に飛び込むように避けた場所に三宮が懐から出した短剣を手に現れる。顔は布で覆われているので誰なのかは分らない。
「新手かっ、成敗してやる」
兵士が突き出した槍を三宮の短剣が横に弾く。目の前にあった長椅子に足をかけると三宮は飛び上がって兵士の頭に手をかけるとそのままくるりと背面に飛び降りた。
「リュウっ、槍を取れっ」
床にあった倒れている兵士の側に落ちていた槍を思いっきり投げると三宮が受け取り、持ち手側で兵士の背中を思いっきり突く。
「うごっ」
骨と肉の鈍い音がして兵士は口から血を吐いた。それでも振り向いて槍を振り降ろそうとしたところをリュウが組みついて兵士の口に布を押し当てる。
尚も暴れる兵士の頭に三宮の持った短剣の柄が打ちつけられて兵士やっと意識を失って床に倒れた。
息が全力疾走したように浅くしかできず、リュウは腰を折って膝に手を置いた。夢中になっていたが、あの槍が突き刺さっていたらと思うと急に震えが止まらなくなった。
「なかなかやるな、助かった」
肩を叩かれて、顔を上げると三宮が布を首元にずらし、口角を片方だけ上げている。
「いや、あの……お役に立てて良かったです」
それにしても、宙返りしたよなとリュウは三宮を見上げた。
「……なんだよ」
「いや、サク、あの……格好良かったです」
リュウの素直な言葉に三宮の頬がぽっと赤くなった。え? と思いまじまじと見直そうとしたら「行くぞ、金を背負え」と突き放すようにつんけんと言われた。
図に乗るなと言われたのか? ぎくりとしながら、リュウが背負子に布にくるんだ金を積んでいると三宮が目の前に立つ。
「ちょっと持ってやる」
「いや、あの」
躊躇したリュウの手から奪うように三宮は包みの半分を抱えた。
もしかして三宮さまって冷たいのではないのでは? 相手が皇子さまだというのに、なんだか良い奴だと言ってしまいそうになってリュウは口を必死でつぐんだ。
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