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ロン・ウェンユウ
「ロン先生、申し訳ありません」
「勉強する気が無いのに戻って来る必要は無い」
窓に背を向けて書卓に座っている深い緑の着物を着た男が広げた教本から頭を上げないままぼそりと言った。その取り付く島もない言い方に部屋の空気がキンと冷えていく。
「本当にすみません。先生、お願いします」
ふんっと鼻を鳴らして男はちらりと視線をキサヤの方へ動かす。政庁の基礎も分っていないキサヤは骨の折れる生徒に違いない。
何人かの文官が先生としてキサヤの勉強をみている。三宮たっての招へいということもあって、どの官もキサヤに優しい。
だが、一番若いこの文官だけが妙に冷たい。いや、機嫌を取ってもらおうとはキサヤも思っていないのだが、言葉尻にいつも剣がある。ロン・ウェンユウは宰相の趙子飼いの官吏で、二十六の若さで右僕射という地位に就いている。それを見込んで帝である二宮がキサヤのために直々に申し入れたという経緯がある。
彼も本当なら断りたかった――のだろうと思うがキサヤも「それならやめろ」とは言えない。そんなぎくしゃくしている間柄だったのに……。
彼に指導を受けている所にお茶を入れにきた女官の一言で部屋から飛び出してしまったのだ。不真面目だと叱責されても仕方ない。
「先生、勝手に部屋を出たことはお詫びします。ご教授お願いします」
キサヤが床に膝立ちして両手を顔の前に掲げるとロンは「座れ」と顎をしゃくった。十七歳というのに小学しか出ていないと趙から聞いて、学問を教える気などさらさらおきなかった。南に省府を置く三宮の補佐に着任するというのに、一体帝はどういうおつもりで? そう思いながら本人に会ってロンはなるほどとこっそりため息をついたものだ。
キサヤという文官、いや少年は遊び好きの三宮の情人なのだろう。実際、男と言われなかったら男装の美女かと思うくらいの目立つ外見である。
新しい帝は政務に熱心だが、それは異例のことだった。先帝も亡くなった皇太子の一宮もほとんど政治には興味が無かった。何代もそんな状態が続いていたために帝が真面目に政務に取り組む姿に驚く官吏が多い。それを嬉しいと思う者ばかりでは無いというのが真相ではあるが。
だから妾妃腹の三宮が遊び好きでも驚かないが、今まで愛妾を表に出すようなばか者はいなかったのに。
帝は官吏をばかにしているのかと悔しくもなる。何せ、中央の官吏になるためには大変な倍率の中、幼い時から寝る間を惜しんで勉強してきたものばかりなのだ。それを、たかだか小学しか出ていない情人ふぜいに一年余りで物を教えよとは屈辱そのものだった。
そう思うとロンは目の前のキサヤにきつく当たってしまうのを止められない。
「尚書省の役割と、門下省との違いを述べなさい」
「はい」
勉強が再開されて、目の前のキサヤの顔がぱっと花が綻んだように明るくなる。思わず見入ってしまい、ロンは慌てて開いている本に目を落した。
キサヤの外見に惑わされることは、自分も堕落したも同じだ。公私の別も分けられない三宮と同じになどなりたくない。
ただの愛妾だと蔑んでいたいのに、結構物分りが良いのもなんだか気に入らない。持って来ている教本の類がまたたく間に終わるのにも腹が煮える。そんな複雑な心境だった。
「尚書省は帝と宰相と下からの上書を吟味し、帝の意思を元に法案の文章を作ります。門下省は法案を審査し、内容によっては中書省に差し戻します。二つの省を通った法案が行政化されることとなります」
「帝の御意向を元にして作られた立案を差し戻すことは恐れ多いとは思わないか」
「不敬と言うことですか、先生?」
頷いたロンにキサヤがはっきりと否と答えた。
「恐れ多くも帝は国の宝であり、並び無き叡智をお持ちです。でも、帝のお考えだけで全てを決めることは多面的に物事を見る必要がある立案という仕事の性質上、困難であると思います。差し戻すということは、案件をより良くする御提案を奏上申し上げるということだと思います」
「おりこうな答え方だな。どこで入れ知恵された?」
「入れ知恵なんてされていません」
手を卓についてロンと額がつくぐらいに近づいたキサヤにロンの方が身を引いた。男のくせに花のような香りなのはどういうことだろう。もう少しで額が触れるところだったのだ。
「だ、だったらいい。ではあと一つの省の名前と役割について聞かせてもらおうか」
「あ、はい。あの、先生、お風邪を召してませんか? 顔が赤いですけど?」
キサヤの言葉にロンは思わず立ち上がった。
「先生?」
「今日はもう終わりだ。この続きは予習しとくように」
本を乱雑にまとめて胸に抱くとロンはバタバタと部屋を出て行く。キサヤは何でロンが授業を止めてしまったのが分らず、後を追いかけた。
「ロン先生、待ってください」
思わず手を引いてしまい、立ち止ったロンに今更手を離せず、キサヤはもう一度謝罪の言葉を口にする。
「先生、今日は本当に申し訳ありませんでした」
「手」
「え?」
ロンは見上げてくるキサヤの視線に困り果てていた。何と言うか、白状してしまうと可愛いと思ってしまう自分がいて。それから逃れるように厳しくしてみるものの、こうやって手を掴まれただけでどうしていいか分らなくなる。ようはロン・ウェンユウも年頃の男ということなのだろうが、自分の胸をドキドキさせているのが男だということが許せない。
「だから手を離しなさい」
「……手?」
ああと手を離すと、ロンは足早に立ち去って行った。ため息をついて、ロンの背中を見送ったキサヤは不穏な気配に気づいて振り返る。
「索冥さま」
外回廊の欄干に背中を預けているのはこの国の第三皇子で皇太子だった。一人の侍従も連れていないのは相変わらずだが、表情が硬い。
「ちょっと」
ぐいっと手を掴まれて今までいた部屋に押し込まれるように入らされる。
「今の誰だ? わたしが選んだ文官にはあんなのいないだろ?」
「今の? ロン先生ですか? ああ、あの方は帝がじきじきに呼んでくださった方です。怒っているんですか、索冥さま?」
「兄上が?」
二宮が口添えしていると言われたら三宮もそれ以上は何も言えない。わざと自分が年寄りばかり選んだのにと内心思っていても。
「えらく若い官吏じゃないか。キサヤの事やらしい目で見てたぞ」
三宮の言葉にキサヤはぷっと吹き出した。
「何言っているんですか、ロン先生はわたしのことを嫌っているんですよ。歳若いからって誰もが男のわたしなんかをやらしい目で見るわけないじゃないですか」
「勿論そうでなくては駄目だ。キサヤをやらしい目で見ていいのはわたしだけだからな」
「索冥さまったら」
分って無いなあと思う一方で、三宮の言葉が嬉しくて堪らない自分もいる。まったく自分はどうしてしまったのか。
三宮を受け入れてからというもの、何かと考えることが女々しいと感じている。こんなんじゃいけない。三宮に頼りっぱなしではいけないのだ。俺が支えていかないといけないのに。
「とにかくすぐに次の勉強が始まるので索冥さま、ここにおられては困ります」
キサヤの言葉に三宮の眉間に皺が寄る。
「キサヤ、わたしが嫌いなのか」
「そんな訳ないじゃないですか、何でそんなことっ」
「だったらキサヤから口付けして」
「ええっ?」
ぶんむくれたままの三宮を前にキサヤはひたすら困ってしまう。ここで口付けなんてしていたら次の先生が来てしまう。
キサヤは三宮が就く役職の次官になるために勉強しているし、世間体にも身分はそれで押し通しているのに。
情夫まがいに取り入ってその役を拝命しようとしているなどと思われたくは無い。三宮の恋人という事と仕事とは明確に一線を引きたい。
それはキサヤのなけなしの矜持だった。
だけど、三宮の機嫌が悪いのも困る。自分より四つも年上なのにこういう時はまるで駄々っ子のようになってしまうのだ、この人は。
「だったら目を瞑ってください。手を出さないでくださいね」
前は随分と背が違っていたのに、この一年でキサヤはぐんと背が伸びた。それでもまだまだ三宮の方が大きいが背伸びするほどでも無くなった。
顎を上げて三宮の首に手を回して引き寄せると、音を立てて彼の唇に自分のを一瞬くっつけて三宮の手がかかる前に後ろに飛び退こうとしたが、三宮が一瞬早かった。
「キサ」
今度は三宮が片手でキサヤの頭を後ろから支えるように持ち、もう片方は腰を抱えて完全に閉じ込められてしまう。
「索冥さま……離して……あ……」
離してと言いながら、三宮の顔が近づいてくるとキサヤは目を閉じてしまう。そして予想していた感触が唇では無く、首筋にきたのに若干の驚きと、落胆を感じた。
「うっ……痛っ」
きゅうと強く吸いついて、その後を舌で舐めた唇がすっと離れる。
「目立つところに印を付けておいたから。なあ、キサ、そんな顔してると今から襲ってしまいそうになる」
三宮の言葉に、どんなもの欲しそうな顔になっていたのかとキサヤは真っ赤になった。
「キサ、いいの?」
三宮の指が悪戯っぽくキサヤの唇に触れる。
良いわけがない、良いわけ無いのにこれで終わりなのが物足りない、そう思ってしまいキサヤは自分から口付けを強請りそうになる。
――ダメだ、ダメダメ。
流されそうになる自分を叱りながらキサヤは逃れるために三宮の指をがぶりと噛んだ。
「いたたたたっ、キサ、痛いって」
「今はダメです、今晩伺いますから」
ね? と顔の前で手を合わされてしまえば、三宮もこの先を押し通せない。
「絶対だぞ、キサ」
「必ず」
遠ざかる足音に安堵してすぐ、今度はがくんと切なくなる。今晩また会える、そう自分に言い聞かせてキサヤは書卓を片づけた。
どこまで自分の勉強は進んでいるのだろう。ここにいるとまるで分らない。大事な事を習っているのは分っているが、果たして今の知識で実際の政務に役に立てるのだろうか?
そう思うといても立ってもいられない。
「セイアさまに相談してもいいだろうか」
彼になら弱音も吐ける気がする。今すぐ彼のところに行きたくなってきたが、今はもうそう簡単に会える立場ではない。
帝になった二宮の補佐官として働いているセイアに会うには事前に連絡を入れないといけないのだ。
いくら好きでも立場の違う三宮には言えない。第一、三宮に弱音を吐きたくはない。鬱々としながらキサヤは席に着いた。
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