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憂い
二宮の後宮は今や、セイアの正寝になっていた。帝の住まいである陽心殿の向かいが月心殿でそこが正室である正妃の住まいにあたる。
二宮はセイアに陽心殿側の星心殿へ移るようにと勧めたが、結局セイアは断って二宮の後宮に居を構えた。
自分だけの場所が欲しい、そう思ったのも事実。今までの自分の部屋は、借り物のようで落ち付いて寝ることもあまりできなかった。
それに――、
正妃が向かいに正寝を構えているのに、自分が帝の近くに居を構えるというのもセイアにはできない。
名目だけだと言われても正妃は正室で次帝になる子どもの母親なのだ。しかも、二宮があんなに子煩悩だとは思わなかった。
自分の子ではない子どもを受け入れられるか。そう思っていたのに、二宮は生まれた子どもに夢中だ。前帝のあっさりした親子関係を見ていたセイアには驚くばかりだった。正妃との仲も夜の通いが無いだけで、二宮は細やかに接している。子どもの無い次妃に対しても言葉を交わし、公式な場や宴では二人の妃は帝の隣に座り和やかに過ごしている。
――良かったと。幸せそうな帝を見て嬉しい。上手くいって良かった。それだけを思えればどんなにいいか。
微笑ましく見ていられない自分に気づいてからというもの、正妃が子どもを連れて陽心殿に渡る時間にわざと執務を入れて会わないようにしていた。
自分はどんどんと欲深くなっていく。そう思うと苦しくてならない。自分の醜さに沈み込む日々が続く。
月光を浴びてセイアは欄干にもたれて物思いに沈んでいた。帝の渡りも断り、食事も摂らずただ座っていた。
青白い月光の中、屋根の上に黒い影を見つけてセイアは立ち上がる。それが何であるのかも夜目がきく彼にはすぐに分った。
「どうした、キサヤ? おいで」
大きな影はセイアの声に応えて屋根から飛び降りた。目の前に現れたのは山犬の顔を持った龍だったが、すぐに形があいまいになり、裸身の人型を取った。
「宮中で獣化するのは止めないと。こちらにおいで、それでは風邪をひく」
大人しくセイアの広げた上着にくるまって見上げるキサヤにセイアはふっと笑って手を差し伸べる。
「膝においで。おまえはこんなに大きくなったというのに甘えん坊だね。今日はどうした?」
「心細くて、セイアさまのお顔を見たくて……話を聞いてもらいたくなりました」
キサヤの言葉にセイアは目を細める。下心無く甘えてくる存在をセイアは今まで知らなかった。本来なら咎めるべきなのだろうが、それはためらわれる。
髪を梳くように手を差し入れ、触れられると気持ち良くてキサヤはセイアの胸に顔を埋めた。セイアの前にいると、ずっと小さい少年に戻ってしまう気がする。誰にも言えないことも彼になら言える気がしてつい甘えてしまう。
「なんだか自信が持てなくて。どうしたらセイアさまみたいになれますか?」
キサヤの言葉にびくんとセイアの手が止まった。
「セイアさま?」
「何でもないよ。それにしてもわたしみたいになんて一体どうした? おまえにうらやんでもらうほどわたしは人間ができてはいないのに」
そういうセイアの声はなぜか震えていてキサヤは驚く。連絡など入れていられるかと夜中を待って獣化したが、今夜は遠くからでもセイアの気配はぴりぴりと感じ、どこに彼がいるかがすぐに分った。
こんな事はここしばらく無かったことで、キサヤはそっと伺うようにセイアを見上げた。
「わたしは欲深い。前は一握りの米に喜んでいたのに、今は目の前にあるもの全てを自分のものにしたい。だけどそれを実行に移す豪胆さも持ち合わせていない。そしてどんどん体の中が腐っていくのを自分ではどうしようも無い」
セイアがたとえで何を言わんとしているのかが見えなくてキサヤは困る。どうしてしまったのか? 傍目には順風満帆に見えていただけにこのセイアの言葉はまったく予想できなかった。
「わたしには何ができますか?」
キサヤの問いにセイアは出すはずの無かった自分の気持ちを口にしていたことに気づく。
「……すまない。今のは……忘れて欲しい。それより一体なにがあった?」
魔族は人間と獣との境にいる。その境界はそれ自体の精神状態に大きく影響される。負に大きく振れすぎると闇に傾く。それは獣の方が強いために自衛を図ろうとする自然な変化なのかもしれない。
だが、完全に心を獣化させてしまうともう人型は取れなくなる。
――まだ、大丈夫。昔に比べればなんということはない。そう自分に言い聞かせても心は一向に軽くならない。人は一度幸せを知ってしまったら、そこからの引き算は難しい。贅沢を知ってしまったら、なかなか昔には戻れない。
なぜなら前は――、置かれている環境しか知らなかった。想像はしても実感が無く、不幸と思っていてもそれは自分の人生そのものだった。
だけど今は違う。
自分は人を愛し、愛される悦びを知ってしまった。もう昔には戻れない。子どもを可愛がり、正妃を大事にする。それはこの国にとって大事なことで、それを実行している二宮は出来た人だと思う。傍目にも仲の良い夫婦に映っていることだろう。
自分だけが。
おそらく自分だけが、こんなにどす黒い思いを抱いているのだと思うとセイアは絶望を感じる。
自分と共にあるために選んだこと。
できるぎりぎりの手段だった。それを断行し、運も味方した。
それなのに、自分は満たされない。
そんなこと……。
誰にも、他でも無い、二宮には絶対知られたくは無かった。胸の内に納めておきたいと思っているのに、どんどんと大きくなっていく闇はいずれ自分を変えてしまうのではないか。
セイアは自分が恐ろしくてならなかった。
「自分が役立たずなのではないかと思うと不安で仕方ないのです」
キサヤの声にはっと内にこもっていた意識が戻る。ここで自分がぐらついているなどと悟られてはならない。キサヤの立場はきっと自分と同じなのだ。
「わたしも政治のことは随分苦労したよ。でもね、科挙で上がってきた官吏たちに臆することは無い。彼らが勉強するのは主に大半は古い詩や古典などだ。教養を身に付けるには有益だが、実務にはそんなに影響することは無い。まつりごとはやってみなくては分らないことが多いものだ」
顔を上げたキサヤの頭をゆっくりと撫でながらセイアは続ける。
「おまえ一人で考えることも無い。南にはしっかりとした官吏も付けていくからそんなに心配はしなくていい。民が暮らしやすくなるために政を行う、これを肝に命じていれば、そんなに見当違いはおこすまい。それに、大きな案件なら帝に判断を仰ぐ必要もある。おまえは頭がいいのだから安心しなさい」
「そうでしょうか?」
「そうだよ、初めから何でもできる者などいない」
「でも、二宮……いえ、帝は最初からすばらしいですよね。やはりお生れが違うからでしょうか」
ああとセイアは頷いて手を止めた。
「あのお方はお小さい時から帝王学を学んでおられたからね。帝にはならぬと仰りながらもずっと施政の事について考えていらしたのだ。彼の私室にはそこら中に書が積んであってしかもそれが全部国に関わるものばかりなのだから」
笑みが浮かんでいたのがふいに曇るのをキサヤは不思議に思いながらセイアの艶やかな髪に触れる。つるんと指から零れるそれはさらさらと肩に流れて元の形に戻る。まるで水のようだとキサヤは思った。
「分らないことがあれば分るまで聞けばいい。一番やってはいけないのは納得できないのに相手に迎合して分った振りをするということだ。初めはおまえを侮ってわざと分りにくい専門用語を並び立てて丸めこもうとする者もいるだろう。でも、それにのってはだめだ。何を言われようと分るまで説明を求めていいのだからね」
「分りました。なんだかちょっとがんばろうと思ってきました」
「ちょっとでも、そう思えたら良かったよ。また何かあったら遠慮なくおいで。ただし、人型でね」
最後にちくんと釘を刺してセイアはキサヤを部屋に入れる。奥の方から取り出したのは濃い紫の長袍だった。
「これは?」
「わたしがおまえくらいの歳に着ていた物だ。何でか捨てられなくて。これを着て帰りなさい。三宮まで送って行こうか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます、セイアさま」
もう番兵に咎められる身分では無い。一人でも迷うことなく宮中を歩くことができる。時は静かに、だが確かに動いている。
「あ、キサヤ」
三宮の寝所に着いたところで、シュンランに捕まった。
「どこにいたのよ、キサヤ。三宮さま、あなたが来ないもんだから荒れて大変なのよ」
「ごめんなさい、ちょっとセイアさまの所に寄ってたんです」
「いいからっ、早く身支度してっ」
遠慮なく上着に手をかけられてキサヤは「自分でしますって」と慌てて浴室に走り込んだ。まったく、シュンランには適わない。
手早く済まそうと思っていたのに、前に三宮が腕の内側に口づけたことや、項や背骨に沿って背中に舌を這わせたのを思い出す。
膝裏はどうだったか、足の指だって舐められたのじゃなかったか? そんなことを考えていたらもう手は止まらない。三宮のために綺麗でいたいと思ってしまい、もう一度洗い直そうかとも思ってしまう。これじゃあ、三宮の情夫だと言われても仕方ないと思うがキサヤの乙女心だって止まらないのだ。
ごしごし足を擦っていると、ふいに肩を後ろから掴まれてキサヤは心底驚いた。
「わっ、シュンランさん、もうちょっとですから……」
そう言って、振りかえったキサヤの背後に立っていたのは三宮だった。
「索冥さま?」
「キサ、おそいっ」
後ろから抱きあげられてキサヤはジタバタと暴れた。
「まだ途中なんです。お部屋で待っててください」
「だったら、わたしが手伝うよ」
「あっ……だめですっ、索冥さまっ」
三宮の手が前に回ってあらぬ所に触れられる。止めて欲しいのか、もっとなのか、浴室の湯気のせいなのか頭が回らない。
「……やっ……ああん」
「何やってるんです?」
そこにがらりと戸が開く。冷たい風が吹き込んで、キサヤの頭を一瞬で冷やした。仁王立ちしたシュンランがじろりと二人の顔を見る。
「服をお召しになって風呂をお使いになる趣味が三宮さまにあったとはちっとも存じ上げませんでしたわ」
吹き込む風よりも冷えた声が大きい浴室に響き渡る。ぴちょんと天井からしずくがキサヤの肩に落ちた。びくんと震えたのはそのせいだ――と思いたい。
「キサヤが遅いから手伝うつもりだったんだ」
キサヤの体に手を回したまま三宮がしゃあしゃあと言い訳をするが、シュンランの口をひきつらせただけに終る。
「手伝うなら、わたしがいたします。大人しく部屋でお待ちください。それとも、浴室で何かなさるおつもりだったんですか」
「い、いや、あの……」
当然三宮は、その気満々だったわけだが、シュンランの剣幕に今それを言うのは賢明ではないと口をつぐんだ。
「三宮さま、お部屋にお戻りを」
大声で言われ、悪戯が見つかった子ども同様、仕方なく三宮は浴室を出て行った。なりゆきをはらはらしながら見ていたキサヤもほっとして胸を撫で下ろす。
が、気がついてみれば素っ裸の自分とシュンランしかいないことになる。
「えっと……シュンランさん」
「後ろ向きなさい、キサヤ。こうなったらわたしが手伝うわ」
「ええ? 嫌です」
「煩いわよ、早く後ろ向くっ。前は自分で洗ってよ」
背中をごしごしと擦られながら、キサヤは恥ずかしさで眩暈を起しそうだった。
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