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化け物
初めての夜勤。三宮の寝所控えにどきどきしていた最中に聞こえた悲鳴。頼みの女官長も居ず、もう動転して部屋に入ってしまった。睦言の最中に部屋に入るなど言語道断で、最初に注意されていたことだった。だが、今のは一体? あまりの衝撃と背徳感で叫び声を上げてしまったのだ。
そこで見たものは、三宮が尻尾のある魔物と抱き合っていた姿だった。たぶらかされている――そう思うと体が勝手に動いていた。
宮様は化け物にたぶらかされているっ。
走って走って叫びに叫んだ。
不寝番の兵士に取り押さえられて女官はやっと止まったが、体はどうしようも無く震えが止まらない。
「おまえ、一体どうしたと言うの?」
その声に振りかえった女官はぽかんと問いかけてきた中年の女性を見る。若い時はどんなに美しかったろうと思われる婦人はニ、三人の女官を連れていて、兵士らが膝をついて礼を取っている。
「心配しなくていいのよ。おまえはどこの女官なの?」
「さ、三宮です」
「わたしは先宮、一宮の母宮よ。一体何があったの?」
「亡くなった一宮さまの母宮さま?」
優しそうな先宮妃の差し出した手を女官は握った。言っていいものか、どうか分らないが、早くしないと三宮さまの命が危ないのではないか。
「三宮さまのご寝所にいるのは化け物です」
「化け物?」
「はい、尻尾が生えていました。どうしましょう」
「落ち付きなさい、今日は誰が寝所に侍る予定だったのか知っているの?」
先宮妃は女官を部屋に招き入れながら、今の情報を整理していた。これはきっと面白いことになる。三宮が一宮を刺したのだとはっきりではないが聞いている。下賤な女との子どものくせに尊い玉体である息子に手をかけたのだと思うと悔しくてならなかった。二宮が帝になったのも腹が煮えるが、そのきっかけを作ったのは三宮だと思うと尚のこと憎らしい。毎晩眠れず、宮の中を歩き回っていた。それが良い目に出たのだろうか。
愛息を陥れた三宮に意向返しができる――そう思うと心配そうな顔を保つのが難しいと先宮妃は口角を上げた。
どこに行ったのか? 薄い夜着一枚で飛び出したものの、吊り灯籠の光だけでは遠くまでは見通せない。三宮の境まで足を伸ばしたが件の女官の姿はどこにも見えなかった。
大きく舌打ちして寝所に戻りかけると、そこに戻って来るシュンランが見えた。
「三宮さま、何してるんです?」
「大変な事になった。部屋に女官が入って来て……」
「お部屋に入った? まさか」
シュンランの声が尖る。そんな不作法なことをするなんて思いもよらなかった。大人しい娘で来てからまだ半月ほどだが、シュンランがつきっきりで教えていた。その間、言いつけに背くことなど一回も無かったのに。
「見られてしまった。キサヤを見られた」
何度もぶつぶつと言う三宮に申し訳ない思いでシュンランは頭を下げる。男のキサヤと同禽していたのを見られるのがまずいと言えば確かに問題かもしれない。だけど、前はあんなにおおっぴらに男を寝所に入れていたのに。立場の問題なのか?
「きちんとしつけが行き届かなくて申し訳ありません。で、その女官はどこに?」
「逃げて行った」
三宮の答えにシュンランは聞き違えたのかと、彼を見上げた。なんで逃げる? 言いつけに背いたからと言って折檻などしたことは無いし、キサヤの目前で三宮が女官に無体なことをするというのも考えにくい。
「逃げたってどういうことです?」
「……それは」
いきなり黙り込んだ三宮にシュンランは畳みかけるように問う。
「一体なにがあったんですか」
キサヤが魔族だと打ち明けなければならなくなるなど思ってもみなかった。何もかも自分のせいだ。キサヤが大声を上げてしまったのも自分の嫉妬のせいだ。
「シュンラン、実は……」
話出した三宮の肩越しにシュンランが「レンリン」と声をかける。
「三宮さま、部屋に入った女官が帰ってまいりましたわ」
驚いて振りかえる三宮の前に女官が跪いて頭を床につけた。
「申し訳ありません。いままで閨の事を見たことが無く、動転してしまいました。お部屋に断りなく入ったあげくに飛び出してしまい、反省しております」
「それだけ?」
驚いた三宮が問うと、頭を少し上げて女官はまた床に戻すので、何回も頭を床にぶつけることになる。
「それだけ……ってどういうことです? 大変な不祥事だと思いますけど」
怒り心頭のシュンランに対して明らかに三宮の機嫌は上昇していた。新人の女官が睦言を初めて見て逃げ出しただけなら問題は無い。そりゃ、キサヤは人に見られたなんて嫌だろうが三宮は特に気にもしていない。
「そういうことなら、シュンラン許してやったら」
「許すも許さないも主人である三宮さまがそう仰ってるのをわたしが覆すことなんてできないでしょう? ったくもう、風邪ひきますわよ、三宮さま」
ああと息を吐くと白くなった。緊張が解けたと思ったらいきなり寒気が足から登ってきて、三宮は大きなくしゃみをした。
「いいから立ち上がりなさい。いいこと、今度勝手なことをしたら三宮では雇っておけないから」
「申し訳ありません」
同じ詫びの言葉を繰り返してレンリンという女官は下を向いたまま、立ち上がった。なんとなく不信な感じを拭いきれないシュンランだったが、もう夜も遅い。話は明日もう一度すればいいかと頭を切り替えた。
今は三宮に風邪をひかれては困る、そこに尽きる。三宮を寝所に追い立てるシュンランの後ろから神妙についていく女官がその少し前、誰に会っていたのかを知る者はここにはいなかった。
寝所に戻ると、キサヤが抱きついてきた。合わさった肌のあまりの冷たさに三宮は驚く。
「外にいたわたしより冷たいって、まさかずっと裸のまま待ってたのか?」
「え? 裸? あああっ、すみません。裸でした、あの、すぐに上に羽織りますから」
言われて初めて気がついたように、キサヤは三宮に回した腕を解いて寝台の側に落ちていた一重の着物を手に取る。
「あの……索冥さま」
ん? と顔を向けると「大声を出してしまってすみません」キサヤが右手の拳を左で包んで顔の前に上げて神妙に言った。
「そんなの、止めてくれ」
急いで三宮はキサヤの元に行くとキサヤの腕を払って抱き寄せた。
「わたしがいけなかった。あれは、大事に抱こうとしなかったせいだ。キサは悪くない、だから臣下が取るようなマネは止めて欲しい。キサはわたしの伴侶だろ?」
「索冥さま、怒ってるんじゃないんですか?」
そう言って見上げるキサヤの頬に泣いた跡があるのを見つけて、三宮の胸がずくんと痛む。さっきは事後処理のことで頭が一杯でキサヤに説明する間も無かった。きっと心細い思いをしていたんだろうと思うと申し訳ないと反省しきりだ。
その半面、自分の振るまい一つで泣いてしまうキサヤが可愛くて仕方ない。キサヤが自分をそんなに思っていると分って嬉しくなってしまう。なんだか何に焼きもちを妬いていたのかも思い出せなくなりそうだ。
これから再開して……と盛り上がりそうになるが、もう夜が明ける。ここで少しでも睡眠を取っておかないと仕事にならない。今までの評判が悪すぎるせいで三宮は官吏たちに信用が無い。
勿論、宮中のやり方に慣れない頃の武勇伝が大いに影響しているのだろうが、キサヤと結ばれる前の夜の件については尾ひれがついて大変な放蕩ぶりに見られている。
二宮のおかげで急に大きな権限を持つようになったが役に立たないなどと言われないように執務には気が抜けない。
「おいで、キサ。一緒に寝よう、体を温めてやるから」
「でも、朝まで居ると女官が来ます」
「シュンランしか来ないよ」
そう言った三宮にキサヤは布団へ引き込まれる。胸に頭を付けると三宮の心臓の音が聞こえてきた。片手で三宮の腰に手を回し、もう片方は自分の胸に置く。そうすると、三宮の体から温かい血がキサヤの体に流れ込んでくる気がする。温かい三宮の血が自分の体を循環して戻っていく……そんな甘い錯覚に陥る。
そうやって、自分の気持ちも全部流れて三宮のものと混ざってしまえばいいのに。
優しく三宮がキサヤの頭に手を掬うように差し入れ、髪を梳かすように触れるのが気持ち良くて、いつの間にかキサヤは眠りの底に落ちていった。
「キサ、寝たの?」
ぐんと体温が上がった気がして、抱きしめていた手を緩めてキサヤの顔を伺う三宮は、返事が返らないキサヤの額に口を付けた。大事にならなくて本当に良かった。『飾りの妃』の正体が魔族だと知っているのはほんの一握りだ。
そのせいで魔族という亜種がこの世にいることを大多数の人間は知らない。この事を知られることはきっと偏見や憎悪を呼ぶに違いない。
自分たちとは違う――そういう事において排他的になるのは人の業だ。詳しく『妃』の事を説明できない事情において、魔族ということだけが取りざたされることは非常に危険だと思う。
皇族と契らなければキサヤは獣化しなかった。普通に暮らしていたはずの人生を変えてしまった責任が自分にはある。
いや、それよりもキサヤを失うことになることが一番怖い。自分がもっとしっかりしてキサヤを守る。今日はそれを考える良い経験になったと三宮はほっと息を吐いた。
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