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先宮妃
リン、と鈴が鳴ってシュンランは三宮の寝所に向かった。
「宮さま、何か?」
「今日はこのまま寝るから。朝呼ぶまでそのままにしてくれ」
「承知しました。おやすみなさいませ」
部屋の明かりを消して、シュンランは部屋を下がっていく。愛おしそうにキサヤを抱く三宮の手を見て、なぜかつきんと胸が痛くなった。
「働きすぎなのかしら。わたしも少し休ませてもらわなきゃ」
廊下を歩きながら口に出す言葉を自分の思いだと言い聞かせる。閨の後始末をする時だって、最中の声が聞こえてきたって動揺したことは無かったのに。
ただ寄りそって眠りについていた――その姿を見て、ごとんと自分の何かが折れてしまった気がした。
手が届かない。分っていたつもりだった二人の間の思いの差。実は思いのほか大きかったのだと今更気付く。
いつでも手が繋げる立ち位置だと勝手に思っていたのに、三宮とはとっくに歩く速さが違っていたのだ。そして、彼と同じ速さで歩ける人は自分では無かった。
三宮はいつまでも小さくてやんちゃな幼名の「ハオメイ」では無いことくらい分ってたはずで、キサヤの事だって応援しているのに。
「女は煩いからシュンランだけでいい。大きくなったらシュンランを嫁にする」
「ハオメイがもっと男らしくならなきゃ嫁になってやんないわよ」
そう言ったら、泣きそうな顔をしてたっけ。あれからもう何年も経っていたのに、自分だけがあのときのまま時を止めていた。
「あの頃は良かったなんて言いたくないなあ。年寄り臭くて」
ぽつんとシュンランは呟いた。こういう夜は風も容赦ないなと苦笑しながら。
夜が完全に明けていく過程をシュンランは仮眠していた長椅子から窓を通して眺めていた。黒から濃い群青に、そして紫へと空は色を変えていく。毎日毎日何があっても夜は明けて朝になる。わたしもそんな風にならないといけない。
このまま二人に付いて行って行く末を見届ける――当然そうなるべきだろう。自分は三宮に雇われているのだから。初めからどうなるものでもなかった。
だけど、本当にそれでいいのか。三宮もキサヤも大好きなのに。このままではきっと――。
二人を憎んでしまいそうで怖い。そうだ、怖いのは自分の心なのだとシュンランは思う。そうなる前に二人の前から消えなければ。そうでなければ、地獄に堕ちる……。
もうそろそろ起きなければと体を起したシュンランは、横の長椅子に寝ているレンリンがうなされているのに気付く。
「あああっ、尻尾がっ、ば、化け物がっ、た、助けて、誰かっ」
「尻尾? レンリン、しっかりしなさい」
十五、六歳というのは大人のようで実はまだ子どもだ。昨晩の失敗がかなり堪えていたのだろう。あんまりしつこく怒るのは止めておこうとシュンランは思った。
「レンリン、起きなさい。朝の準備をしとかないと宮様からの合図に間に合わないわ」
肩を揺すられて目を開けたレンリンは汗をびっしょりかいていた。よほど怖い夢を見ていたのだろうと背中を擦ってやる。するとレンリンはやっとここがどこかを認識したみたいに瞬きを繰り返した。
「身支度をしなさい、レンリン」
「はい、シュンランさま」
身支度を素早く済ましたシュンランにレンリンが「あの」と声をかけてきた。
「何?」
「今度の事は本当に申し訳ありませんでした。今度はきっとやり遂げますので、今度の寝所番もわたしに任せてもらえないでしょうか」
思い詰めたような顔で一気にまくしたてると、レンリンは口を真一文字にしてシュンランを見上げる。
真面目な娘なのだと微笑ましく思うが、暫くは離した方がいいのではないかとも思う。うなされるくらい落ち込んでいるのだから。
「また、その機会もあるでしょうね。でもしばらくは……」
「お願いです、寝所番に」
シュンランの言葉を断ち切ってレンリンが叫んでシュンランの手にすがりつく。
「レンリン?」
「絶対粗相はいたしませんから。お願いします、挽回の機会をお与えください」
どうしようかと思ったが、同じ事をするとは思えず、上手くやり遂げれば悪夢を見ることも無くなるかと、そうも思える。
「分ったわ、レンリン。次もあなたにやらせます。しっかりやるのよ」
シュンランの応えにレンリンは涙を浮かべた。
――良かった。これで先宮妃さまとのお約束を守れる。
「おまえが上手く手引きをするのよ。三宮を助け、化け物を退治するためには現場を押さえないと。三宮はその魔物の虜になっているのだから、きっとおまえの言うことなど信用してもらえ無いはず。だからこれは秘密裏に進めないとダメ。他言無用よ」
先宮妃さまはそう仰っていた。兵士を寝所に忍ばせてあの化け物が正体を現したところで捕える。自分が宮様の命を御救いするのだとレンリンは拳を握りしめた。
もう起きないと――そう思いながら三宮が視線を下に向けると、キサヤも目を覚ましたのか目を開けた。朝日を浴びて今開いたばかりの花のようだと三宮の口元が自然と綻ぶ。
「お早うございます、索冥さま」
「お早う、キサ」
いつになったら自分の名前を呼捨ててくれるのかと思うが、こんなに良い気分で朝を迎えられたのだからと口には出さない。
「三宮さまの瞳が朝日に反射して眩しいほど綺麗」
三宮にとって必殺の言葉を言いながら、キサヤが目を伏せる。そして唇を尖らせてるのを見て、三宮は何を催促しているのが分ってしまい「可愛い」と心の中で叫んでしまう。思うままに声に出すとキサヤは怒ってしまうので、半分くらいしか口にはできない。
だから、返事の代わりに抱き寄せて唇を合わすとキサヤは嬉しそうに胸に手を置いてきた。
――か、可愛い。
このまま今日は布団に二人で籠っていたいという誘惑と必死で三宮は戦わなくてはいけなかった。
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