ロンの天敵

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ロンの天敵

「だから一体どういう事をお聞きになりたいのかが分らないのですが」  キサヤの部屋に行こうとしていたロン・ウェンユウは尚書省の長官である尚書令の陳に至急の話があると呼ばれた。 自分の直属の上司である陳は五十がらみで、仕事ができるというより家柄で今の職を取っている、そんな男だった。その点においてロンは非常に不満を持っていた。  科挙という制度は身分に関わらず、能力のあるものを登用するという制度のはずだ。それなのに、実際は家柄だけで高い職に就いている者の何と多いことか。建前と本音、分らないとここではやっていけないと分ってはいるが納得できない。 尊敬している宰相の趙は自分と同じ商人の子どもだと聞いている。科挙に最年少で合格し、奇跡の出世をして宰相にまで上り詰めたとすでに伝説になっている。  科挙を目指す子どもに言い聞かせるたとえ話にどこの親も持ち出す有名な話だが、実は真偽のほどは分らない。それは科挙で官吏になったものか否かは公には伏せられているからだ。  陳の私室に通されたロンの前には思ってもいなかった顔ぶれが控えていた。部屋には礼部の長官である尚書の周、それに見知らぬ官吏と先宮妃がいた。 「ロン・ウェンユウ、呼び立てて悪かったね。わたしらが聞いたことは外に漏れると困ることなんだよ。いや、深い意味は無いんだが」  陳はいつものように、分りにくい言葉でしゃべる。外に漏れると不味いはずの事が深い意味が無いとは一体どんなことなのか、さっぱりだ。 「君は趙の命で三宮さまの侍従の教育を受け持っているらしいが、その事について聞きたいことがある」  周が陳には任せておけないと口を出してきた。 「侍従と言うと……」  ――キサヤのこと? 何でキサヤのことをこの高官たちが気にかけるのかは分らないが、趙さまのことを格下である彼らが呼捨てにしていることの方が気にかかる。きっと、影では名家の出てないことを論ってでもいるのだろう。 「で、その侍従の何を言えばいいのでしょう?」  勿論、自分が知っているのは授業中の彼の様子でしかない。私事など何も知らないのだから言いようも無い。  可愛いとか思っていることなど主観でしかないのだから言う必要も無い――わざわざ心の中で言い訳する自分に気づいて汗が出る。 「その侍従、おまえの目から見て不信なことはないの?」  黙っていた先宮妃がぐいと身を乗り出す。 「不信……ですか?」  変だといえば、その出目自体がすでに変なのだが愛妾あがりなのだとしたら、それも納得の容姿だ。普通に生きてきて、彼のような華やかな美貌の人物を見ることなど無いだろう。  ここだから。宮中という場所だからこそ、会うことがあった人物であるのは間違いない。だが、色子まがいの美貌のくせに聡明な頭脳を持っていると言わざるを得ない。彼は優秀な生徒だというのは本当のことだった。 「不信というか、不可解ですね。彼ほど優秀なら科挙を目指すべきだと思います」  ロンの答えを聞いて、明らかに先宮妃の表情が曇る。 「そのような事ではなくて……」 「わたしは彼の勉学の師です。それ以外の事は何も知りません」 「ロン」  先宮妃が何かを言いかけるのを周が遮る。ロン・ウェンユウが朴念仁だと言うことは痛いほど知っている。先宮妃が知りたい三宮と侍従の醜聞などに気が回る男では無いのだ。 「ならば、良い。三宮さまは大事なお方だ。侍従の動向にも目を向けておいた方がいいと思うてな。何もなければいいのだ」 「では、侍従が何かを企んでいるとお思いに?」  まさかと思うが、何か陰謀の匂いでも掴んでいるのだろうかとロンは返事を待った。そうであれば、自分もそれを阻止することに異論は無い。 「いや、そうであったら困ると思って君に聞いたのだよ。何も無いのならいいんだ。引きとめて悪かったな、ロン・ウェンユウ」 「いえ、何かありましたら何でもお申し付けください。では、失礼します」  なんだかすっきりしない気持ちのまま、ロンは部屋を退出した。最後まで何も口を出さなかった、あの官吏は一体誰なのか? 高官なら全員の名前と顔は把握しているはずなのに彼にはまったく心当たりが無かった。  だが、彼こそがあの集まりの肝なのではないか? ふと、ロン・ウェンユウは思った。  大仰な装飾の入った大きい柱が続く回廊が終わり、桜の一枚板で作られている簡素な回廊が目に入る。そこからが三宮で、左右に一人づつ警備の兵が控えていた。ロンが踏み入ると兵士らが拳を握って顔の前に上げて彼を通した。  皇太子にはもう宝玉さまが内定していると言うものの、確定されるまではここの主が皇太子だというのにこの閑散とした様は一体なんなのだろうか。しかも、侍従がキサヤ一人きりという現状だ。そのキサヤにしても朝から晩まで勉強をさせているのだから、結局三宮はいつも一人で宮中をうろうろしていることになる。  誰もいない回廊の床は、ほこり一つ落ちていない。寺院のような清冽さにロンは大きく深呼吸した。  三宮に入るとなぜかほっとするのはなぜなんだろうとロンは思う。それはここが他の宮より調度が簡素だったり、使用人が少ないことなどから……だろうか。ひょっとしてここには宮様の母親や、姉妹といった女性がいないせいもあるかもしれない。  女っ気があまりないということは、華やぎが無いということに繋がるのだろうが、ロンには飾り気の無いこの雰囲気は好ましいものだった。  やたらとまとわりつく女官の存在もロンは苦手だが、ここの女官、特に女官長は苦手だ。若い女官と話すのを楽しみにしている官吏も多いが、ロンは上手く女性と話すことができない。と、いうより何をしゃべっていいのかが分らない。  会いたくないと思っていると出会ってしまうのが常だ。ロンの行方を遮るように三宮の女官長が歩いて来るのが見えた。 「あら、ロン先生。今日は随分とおそいお越しですわ」  いきなりの先制攻撃にロンの足が止まった。時間厳守だとキサヤに煩く言っているのを聞いてでもいるのだろうか? いや、ただ今日は遅い……と感想を言ったまでか? とつい色々考えてしまう。 「少し、用が入って」 「では、事前にご連絡いただいているのですね」  言い訳めいた返事にすかさず返る問い。 「いや、その、急だったもので」  これだけの会話でロンはもう悲鳴を上げそうになった。なにか、言わないと。沈黙が怖いなんて自分でもだらしないとは思うがどうしようもない。 「キサヤについて聞きたいことがある」 「キサヤの事ですか」  穏やかそうな顔がキサヤの名前を出した瞬間にぴんと張り詰める。 「それはどういった趣旨のお尋ねでしょうか」  作っていた笑顔は姿を消して、真剣な顔で聞いてくる女官長にロンは内心しまったと思った。確かこの女官長は三宮と同郷だと聞いたことがある。もしかして、三宮が寝所に入れている可能性だってあるかもしれない。なんといっても、ここの主は「あの三宮」なのだ。  今の問いを無かったことにしたい。気ばかり焦ってあたふたしていたロンを救ったのは、キサヤだった。 「ロン先生、お待ちしていました」 「ああ、遅くなった。ではさっそく」  どさくさに紛れて二人は部屋に入ってしまった。取り残されたシュンランはなんだかもやもやとその場に佇む。この変な感じは覚えがある。 「そうだわ、昨日のレンリン」  何を探ろうとしているのか? きっとそれはどれもキサヤに関連したことだ。女官だけの話では無く、ロンもそれを探っているとしたら一体誰が?  三宮に話した方がいい、そうは思うがもっとはっきりしてからでないと具体的な事が何も言えないことにシュンランは気付いた。何が起こっているのか、突き止めなければ。
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