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予定変更
朝議の後、目を合わさないようにセイアは帝から逃げるように朝議殿から出ると、自分の居室である二宮の後宮に戻ろうと早足になった。
このところ、朝議の場はセイアにとって拷問のようだった。帝の執務室には入らず、私室で仕事をし、二宮からの閨の誘いも体調が悪いと断り続けている。そうすれば平静になっていられるのかと聞かれれば否と言うほかない。苦しくて堪らない。だが、何も無いように接することなどできない。不器用な自分に嫌気がさす。
セイアの席は帝の横にあるため、朝議の最中は書面と前しか見ないようにしていた。二宮も何度かこちらを見ていたが、反対側の宰相の趙と言葉を交わすことが多いため、セイアと何かを喋ることはない。
氾濫する大河として有名な黒河の堰が今回の大きな議題で、ここには利権が大きく絡み、雨季を前に話を進めたい趙らと、高官の折衝は困難を極めた。昼間までかかってしまい、帝の提案でもう一度案を各自持ち帰り、精査することとなった。
やっと終わったと思うと緊張が走る。ここからいかに帝と接触無く私室まで帰るか。そそくさと席を立ち、逃げ出すように部屋を出る。
「セイア、話がある。わたしの部屋に来て欲しい」
後ろから二宮の声が聞こえてしまう。仕方なくセイアは振り向く。
「承知いたしました」
このところ、こういった公の場以外二宮と一緒にいないことで、いつかは詰問されるだろうとは思っていた。
帝が後宮のセイアの私室に渡ったのはもう随分と前だ。二宮はこのまま正妃さまと名実ともに夫婦になったらいい。自分は心からそう思って――。
これは偽善だ――自分の腹の中の醜さに吐気がする。
「セイア」
部屋に入ると背中から抱きしめられた。前に回された腕の懐かしい感触。いつの間に馴染んでしまったのか。張りつめた背中の強張りが緩み、振りほどくのが一瞬遅れる。
「手を……お離しください」
「嫌だ、離したらそなたからは触れるつもりはないのだろう?」
「陛下」
「名前を呼んで、セイア」
耳元に唇が触れ、首筋に顔を埋められる。ああ、崩れるとセイアは身を捩った。跳ねのけて、拒絶してと思っていても抱かれた腕の中から一歩も動けない。
「炎駒(えんく)、大公としての責務は果たします。でも、あなたを寝所にお迎えするのはもうご容赦願えませんでしょうか」
「なんで……」
問われても答えられない。あなたを一人占めにできないのが我慢できないからとはとても言えるはずが無い。
「わたしはもうすぐ四十を迎えます。床を一緒にできる年齢はとっくに過ぎて……」
セイアの体はくるりと向きを変えられて、きつく抱きしめられる。
「そなたは美しい。どこもかしこも磨かれた珠のようだ。髪の先まで美しいと思っているし、愛おしい。だけどセイア」
額に唇が押し付けられるとそこから凍った自分の体の中に熱い血が流れていくような気になる。体の先まで温もって長い冬眠から醒めるように。
「歳なんて言うな。わたしは皺だらけになってもそなたと抱き合いたい。お互いによぼよぼになってもそなたがいい。そなたはわたしの伴侶ではないか。外見だけが好きなのでは無い。わたしはそんな不実な男か?」
「では、わたしがお役に立てなくなってもいいと?」
「そうなったら、抱き合って寝よう。浅くしか寝られぬようになったら、ずっと話をしよう。とにかく私室に呼びたいのはそなたしかおらぬ」
「炎駒……」
こんな事を言われてしまうと離れられない。自分だって愛おしいと思うのは帝だけで、抱きたいと思うのも彼だけ。こんなに苦しいのも独占欲のせいなのだ。役に立たないどころか、言葉だけでもう煽られている。
「炎駒、もう喋らないで」
「なんで」
「もう我慢できなくなります」
「まだ、昼間……あ……」
服の合わせ目に白い手がするりとそれ自体が生きもののように入っていく。
――午後からの執務はできそうにないと思い、それが嬉しいと思う。
帝である自分の執務予定を変更させるような大それたことができるのはこの国でセイアだけ。
「ま、待って……セイア」
「嫌です」
もつれ込むように寝台に倒れ込んで噛みつくような口付けを交わす。問題は解決したわけではない。そうだが、今は忘れたい。そうセイアは思った。
自分がこんなに刹那的で強欲だったと思わされるのは腕の中で潤んだ瞳で見上げているこの人と居る時だけだ。
「炎駒、愛してます」
「セイア、わたしがそなたを同じくらい愛しているのを忘れないで欲しい」
上下する喉仏を食むように唇で挟んでそのまま鎖骨に口付けをすると、恥ずかしそうに、それでも抑え切れない喜悦の声が聞こえた。
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