海になりたかった雲

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 昼間の気温が信じられないくらいに冷え込んでいた。  夜明け前、蒼と黒の世界。そこはあまりに厳かで、このままこうしてじっとしていれば、光かがやく天使が舞い降りてくるのではないかと、普段であれば考えもしないような非現実的な、神聖な気持ちを呼び覚ます。  事実、気分はいたって平静だった。楽しくもないがつまらない訳でもない。興奮も高揚もないが恐怖も懸念もない。心は、ただひたすらに安らかだ。  だが、この寒さだけは不快であった。ここには寒さを遮る壁も、屋根もない。遠くに見える低い丘陵地帯を這うように、冷たい風がひたひたと押し寄せてくる。10代のころ野宿をした事はあるが、その時は寝袋もブランケットもあった。今のこの状況よりも遥かに恵まれていた。  背中を、やわらかなクッションではなく硬い木の幹にもたせかけ、腰や尻や両足の肉に食い込む小石の感覚は既に麻痺している。不快なのは寒さだけであって、痛みはなかった。  早く夜が去ってくれる事だけが願いだった。もう少し。もう少し辛抱すれば、あの丘陵地帯の向こうに、優しいぬくもりを纏った太陽が現れる。そのあたたかな胸に早く抱かれたかった。 「雲が多いな」  ふと右側から掠れた声が聞こえた。首を巡らせる気力がなかったので目だけを声の方へ向けると、投げ出された長靴(ブーツ)のつま先だけをどうにか視界に捉えることができた。 「雨になるかな」  自分に話しかけているのだろうか。それとも独り言だろうか。相手の目線を見れば判断がつくのだろうが、確認するのも面倒だった。 「……雨は、嫌だな」  そう、呟いてみた。 「あ? 生きてんのか?」  驚きの混じった声が返ってきた。 「ああ、どうやら生きてるらしい」  煙草の煙を吐き出すように、長々と息をつく。ややあって、右側からも同じように長いため息が聞こえてきた。
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