579人が本棚に入れています
本棚に追加
黒住は、それまでの彼らしくなく、余裕のない切迫した顔になった。
「環」
その名前を呼ぶ声が、どこか弱々しくさえ聞こえる。
「そんなことを言ったら、ダメだ……」
抑えが、効かなくなる。
環の手が、そっと黒住の額に触れた。
黒住が、酷く汗をかいていたからだ。
そんなに汗をかく質ではない、と言っていたのに。
「環、すまない」
その伸ばされた手を、黒住はやや乱暴に掴んだ。
そして、強く引き寄せる。
「君を、愛してる」
共に過ごした時間は、ほんの僅かだ。
それなのに「好き」を通り越して「愛してる」とまで言う黒住の真意を測りかねて、環はほんの少し戸惑った。
しかし。
身体がフワッと浮き上がった。
黒住に、お姫様抱っこされたのだ。
そのまま、環を抱き上げたまま、彼は、リビングの真ん中にある螺旋階段を昇り始めた。
二階にあるのは、おそらく。
仕事部屋や、寝室…だろう。
「カイ…?」
愛…とまで言えるかはわからないけれども、黒住を好きだ、という自覚はある。
彼がそれを望んでくれるというのなら、身体の関係になる覚悟も、仄かにはあった。
その期待を少しは持って、まだここにいたい、と言ったのかもしれない、というぐらいには。
環も健康な高校生男子だ。
性的なことに興味がないわけではないから。
それが、たぶんそうなると思うのだけれども、自分が抱かれる側…なのは、怖くないと言ったら嘘になるけれど、それでも。
でも、今の黒住の様子は明らかにおかしい。
短時間しか一緒に過ごしていないから、もちろん黒住の全てを知っているわけではない。
というかむしろ、環が接していた黒住のほうが作られたもので、今の彼のほうが本来の彼なのかもしれないのだけれども。
だけど、感じている違和感は、そういうことではなく、もっと根源的な何かがおかしい、と環の本能が訴えている。
螺旋階段を昇りきって、黒住が迷いなく足を進めたのは。
やはり、寝室だった。
最初のコメントを投稿しよう!