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たぶん、ほんの数秒のことだっただろうけれども、環には何時間にも感じるような微妙な沈黙の時間が流れて、黒住が口を開いた。
「血が出ている…手当てしたほうがいい」
うっとりするような低音の美声だった。
環と同じように口をポカンと開けて、黒住の佇まいに見惚れていた店員が、その言葉に慌てたように環を振り返る。
「あっ、本当だ、君、事務所で手当てするから…」
あの、黒住先生も事務所にご案内します。
環は、自分の足が地面を踏んでいることがわからないほどフワフワした気分で、促されるままぼんやりと店員の後について歩いた。
本来の環なら、こんな場面に遭遇しても、怪我なんてたいしたことないですし自分が悪かったんで、と手当てなんて固辞したはずなのに。
黒住の瞳に見つめられたら、それがサングラス越しだと言うのに、なんだか全然頭が働かないのだ。
しかも彼は、派手に転んで目立ってしまった環を、店内の視線から庇うように、そっと肩を抱いてくれた。
舞い上がってなのか混乱してなのか、上手く歩けない環をサポートして誘導してくれる。
「ずいぶん小さくて細い…君は幾つだ?」
その、ぼんやりしている顔を覗き込まれるようにして問われる。
「小さくない、です…一応、高校生です」
小学生ぐらいに間違われていそうな質問に、一瞬我に返った環は、幾らか頬を赤らめて抗議した。
「高校生、か……ふぅん?」
悪戯っぽく、黒住の瞳が揺らいだ気がした。
サングラスをしているから、はっきりとはわからないけれども。
胸があり得ないぐらいドキドキする。
肩を抱かれているから、身体全体がすっぽり包まれているような感覚で、黒住の、何か甘いような爽やかなような匂いに、頭のクラクラが一向に収まりそうにない。
「店長を呼んで来ますので、お待ち下さい」
店員もテンパっていたのだろう。
事務所に着くなり、彼はそう言って出ていってしまった。
環の腕の怪我を放置して。
「困ったな…君の怪我をそのままにして行ってしまった」
もうそんな必要はないはずなのに、黒住は環の肩を抱いたままだ。
その抱きしめられたような状態のまま、血が出ている腕を引かれた。
「た、たいしたことないんで…あの、俺…帰ります」
腕の傷は、本当にたいしたことなさそうなのだ。
おそらく、本の中に倒れ込んだときに、ダンボールか何かで引っかけて切ったのだろう。
少し血が滲んでいる程度で、流れ出るほどではない。
そんな程度の傷で、何故こんなところまでついてきてしまったのか。
環は急に恥ずかしくなって、慌てて腕を引いて、黒住の腕の中から離れようとしたのだが。
黒住は、背こそすらりと高いがどちらかというと細身で、いかにもインドア派の作家、という見た目からは想像できないぐらい力が強く、環が少し力を入れたぐらいではびくとも動かない。
「ダメだ、傷口から雑菌が入ったらどうする?」
仕方ない、消毒しようか。
そう言って、黒住は艶然と微笑んだ。
ペロリ、と赤い舌が唇を舐める。
思わず環はその仕草に目を奪われて、ぼうっとしてしまった。
次の瞬間。
腕に、ひんやりとした感触が這う。
傷口を、その舌で舐められている、と気づいて、環はパニックになった。
「あっ、あの、そんな……っ、や、やめて下さいっ……!」
制止の声なんて、黒住は、少しも耳に届いていないようだった。
環の腕を舐めながら、どこかうっとりとしているようにさえ見える。
乾いてこびりついていた血まで全部綺麗に舐め取って、彼はようやく名残惜しげに腕を解放してくれた。
「匂いがもう堪らなかったけれど、本当に最高だ」
極上の。
口の中で呟かれたその言葉は、環には届かない。
そうでなくても、敬愛する「黒住先生」に傷口なんて舐められて、混乱の極地に追いやられているのだ。
「君、さっきスマホを持っていたな?」
その低音の美声が、有無を言わせぬ響きを含めてそう訊いてくる。
「え、あ、ハイ…?」
「怪我の経過が心配だ。連絡先を教えておいてくれ」
こんな傷、怪我のうちに入らない。
そんなの、なんかオカシイ。
そう思うのに、環の手はまるで操られているかのように、スマホを取り出していた。
画面のロックを解除して、何故か黒住に渡してしまう。
黒住は、手慣れた様子で連絡先を互いのスマホに登録している。
夢にまで見るほど憧れの作家に、サインどころか連絡先交換までされている。
もちろん嬉しい。
でも、何か違和感が拭えない。
それなのに、その違和感について考えようとすると、頭がぼうっとして、上手く思考が働かないのだ。
「これでいい」
スマホが手元に戻ってくる。
LINEのメッセージ画面が開いていた。
良祐からのメッセージが目に入る。
『本屋着いた』
『どこにいる?』
『環?どこだ?』
『何かあったのか?』
すっかり頭から飛んでいた。
良祐が迎えに来てくれるのを断ろうと思ったのに、黒住にぶつかってバタバタしたせいで放置してしまっていた。
「あ…ヤバっ!」
小さな声が、思わず口をついて出た。
その画面を、黒住も見ていたのだろう。
彼は薄く微笑んで、言った。
「私のせいで、友達に心配かけてしまったようだ」
怪我をさせてしまった上に、引き留めてしまって悪かったな。
また今度、改めて謝罪させて欲しい。
さっきの店員には言っておくから、もう行っていいよ。
黒住にそう言われた途端、ぼうっとしていた頭がクリアになってくる。
良祐が探してくれているから、行かなくちゃ。
環は、こちらこそ本当にスミマセンでした、と言ってペコリと頭を下げ、くるりと踵を返して事務所を後にした。
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