恋う

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恋う

環に黒住から連絡がきたのは、その3日後のことだった。 環は結局あの日、良祐に抱えられるような状態で帰宅し、自室に辿り着くなり夕飯も食べずに爆睡してしまった。 家族も良祐も風邪でも引いたのか?と随分心配してくれたけれども、熱もなく咳や鼻水などもなく、本当に疲れただけだったみたいで、翌日にはケロリと普通の状態に戻ったのだが。 良祐だけは、単なる疲労というのに納得しなかったらしい。 あの日、本屋で何があったのか、しつこく聞きたがった。 しかし環は、なんとなく良祐にあの日の出来事を話すのを躊躇っていた。 黒住のあの独特の空気をうまく説明できる自信がなかったし、腕の傷を舐められたとか、連絡先を交換したとか、そういうことを、ただでさえなんだか恋人でもあるかのように環を束縛したがる、子どものような独占欲剥き出しの幼なじみには言いづらかったのだ。 黒住からのLINEのメッセージは簡潔だった。 『その後、腕の傷は大丈夫か?』 事務的で、むしろ拍子抜けするぐらいの。 あのとき、腕なんて舐められたものだから、そして、なんだかすごく親密な距離感だったから、何かもっと、性的なニュアンスを含んだ誘いでもあるのかと警戒していた自分が恥ずかしくなった。 自意識過剰も甚だしい。 あんな美形なのだから、わざわざ平凡な高校生、しかも男なんかに、そういう意味で興味なんか持つはずもないのに。 普段から良祐が変な心配ばかりしてくるから、なんか環までいつのまにかおかしな思考回路になってしまっていたようだ。 黒住を怖いとさえ感じていたのも、あまりにもオーラが凄すぎて萎縮していただけなのだろう。 日常の中で思い返すと、あの時間をそんなふうにしか思い出せない。 そんな偉大な敬愛する作家の貴重な時間を、自分ごときに関わることで無駄に潰させるわけにはいかない。 だから、環はすぐに返事をした。 『心配していただいて本当にごめんなさい』 『傷はもうほとんど残っていないぐらいです』 『黒住先生のほうこそ、ぶつかったところは大丈夫ですか?アザとかできませんでしたか?』 黒住からの返事は、少し間が空いた。 文字を入力するのはあまり得意ではないのか。 『君みたいな小さな子にぶつかられたぐらい、なんともない』 あの日も、黒住は環を「小さくて細い」とかなんとか言ってたっけ。 彼は本当に、環を小学生の子どものようにしか思っていないのかもしれない。 高校生だ、と伝えたときも、なんだか可笑しそうにしていた気がするし。 消毒すると言って腕を舐めたのも、経過が心配だからと連絡先を交換したのも、本当に純粋に、子ども扱いされただけなのかもしれない。 そんな気がしてきた。 それにしても、小さな子、という表現に、どう返信すべきか。 環が悩んでいると、次のメッセージが届いた。 『ところで、あの日、君は私のサイン会に来てくれたのだそうだな』 環が帰った後で、書店の店員から聞いたのか。 なんだかものすごく恥ずかしい。 ますます返信に困る。 スマホを睨み付けるようにして、どうしたものか悩んでいると。 『君がまだ私のサインを欲しいと思ってくれているのなら、怪我をさせてしまったお詫びも兼ねて、あげたいと思っているのだが、どうだろうか?』 連続で流れるように送ってくる良祐や、同年代の友達のそれと違って、ポツリポツリと間を空けながら送られてくる黒住のメッセージは、とても一生懸命で誠実な印象をもたらした。 連絡先まで交換しておきながら、今更サインというのもなんだか変な気もしたけれど、貰えるのならばとても嬉しい。 『お詫びなんてとんでもないです…こっちが悪かったのに』 『でも、正直、サインをいただけるなら、めちゃくちゃ嬉しいです』 そう返信する。 しばらくして、ポン、とスタンプが一つ返ってきた。 ニッコリ笑った、可愛らしい吸血鬼(ヴァンパイア)のキャラクターのスタンプだ。 それは、黒住の作品の中の、吸血鬼を題材にしたシリーズのキャラクターをスタンプにしたもので、環も愛用している。 黒住先生から、黒住先生のキャラクターのスタンプ貰うって、なんかすごく贅沢で尊いことな気がする。 環は、一人スマホを眺めてニヤニヤしてしまった。
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