恋う

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「環、帰ろーぜぃ」 放課後、良祐がいつもどおり環に声をかけてきた。 環は、何と言って良祐を断ろうかと今日は一日悩んでいたのだが、上手い言い訳は見つからないままで。 「ごめん、良祐、今日ちょっと用事があって」 歯切れ悪くそう言うと、良祐の独占欲センサーに触れたらしい。 「え?環、朝何も言ってなかったじゃん?何、何があんの?」 まあ、そう食い下がってくるよな、とは思っていた。 「黒住先生のサイン本、譲って貰えることになって、その、いつもSNSでやり取りしてるファン仲間から」 嘘をつくことに、もちろん罪悪感はある。 でも、黒住本人と会う、なんて言ったら、どうしてもこの前の出来事を話さなくてはならない。 そうしたら、目の前の、環に対して酷く過保護な幼なじみは、絶対に黒住に不信感を抱くに違いない。 二人で会うのは危ないとか、いろいろ文句を言って着いてこようとすると思う。 そして、着いてきたらきたで、黒住を変質者扱いして威嚇しまくるに決まっている。 環のほうが謝罪しなければいけない立場なのに、あんなに心配してくれて、気にかけてくれた優しいひとに対して、酷く失礼な態度を取るのが目に見えている。 だから。 「ほら、前もオフ会したって言ったじゃん?あのメンバーで、今度の新刊の話をするって、朝言わなかったっけ?」 そん中の一人が、サイン本偶然二冊手に入ったから一冊譲ってくれるって言うし、どーしても行きたいから。 早口にそう捲し立てる環を、良祐はじーっと見つめていたが。 「……わかった」 意外とあっさり、そう引き下がった。 「じゃあ、また明日な、環」 環は、ホッと小さく息を吐いた。 素直に去っていく良祐の後ろ姿に、ごめん、と心の中で謝って、慌てて帰り支度を整える。 黒住に会える。 この前はあまりにも突然の出逢いで、怒濤のように次から次へと混乱する出来事が起きて、舞い上がりすぎて頭がフワフワし過ぎて記憶すら曖昧で、あれは夢の中の出来事だった、と言われても「ああ、やっぱり」と納得してしまうようなものだったから。 黒住のオーラに圧倒されまくって、恐怖さえ覚えてしまったなんて、まるで黒住の存在そのものが、彼の書く作品を体現しているようで、今考えると凄いレアな体験をさせて貰ったわけだ。 だから、今度はきちんと、記憶に刻みつけよう、と意気込んでいる。 今回、サインを貰ったら、もう黒住にとっては、環は大勢いる顔の見えないファンの一人に戻るだろう。 それ以上、環と繋がる理由はないのだから。 もしも、今日少しでも話ができるなら、どれだけ黒住の作品が好きか、ほんの片鱗だけでもいいから伝えたい。 あの凄いオーラに負けないように、環の中にある黒住への熱量を、僅かでも伝えられたら。 それができたら、もう十分すぎるほど幸せだと思う。 環は、ソワソワと落ち着かない足取りで教室を後にした。 先に出たはずの良祐が、そっと後ろからつけてきていることには、気づくはずもなかった。
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