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第1章 私だっていつかはいなくなる
忘れられない人がいる。
その人は俺の心の奥の奥、そんなところにどっかりと座って、立ち退く気配はない。その人はどこか遠くに行ってしまったわけでも、死んでしまったわけでもない。どこにいるかはわからないけれど、きっとすぐに会える距離にはいるはずだ。しかし俺はその人のことを忘れるべきなのだと思う。そうでなければ、俺はいつまでもその人を想い続けるのだろうから。
俺はマンションのエレベーターに乗って4階まで上がると、最も右奥にある部屋へと向かって歩いた。歩きながらジーンズのポケットをまさぐり、音の鳴らない小さなベルのついた鍵を取り出す。
やがて俺は自分の部屋、その玄関の前で立ち止まった。鍵穴に鍵を差し込み、手に力を入れてぐいと回す。鍵穴が少しおかしくなっているから、鍵を開けるのに少しばかり力が必要なのだ。しかし毎回こうして力任せに鍵穴をいじめていたら、余計におかしくなってしまいそうではあるのだが。腕時計に目をやると、23時50分を示していた。
そうして玄関を開け、中へと入ってブーツを脱ぐ。カーテンは開けたままだったが、部屋の中は暗かった。窓の外は夜の暗闇と、街の明かりが入り混じっている。俺は照明も点けず、そのままベッドに倒れ込む。突然、自分が水を飲みたかったことに気付いた。
不思議だ。あれほどビールを飲んだのに、まだ喉が渇いているとは。勿論、俺が今望んでいるのはビールではなく水なのだけれど。
俺は重い体をなんとか起こし、ベッドから立ち上がった。冷蔵庫を開けると、冷蔵庫の中から光が溢れて暗い部屋を照らす。500ミリリットルのミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、それを一気に飲み干した。
空になったペットボトルを部屋の隅へと放り投げ、腕時計を外してベッドの枕元に置き、手早くスーツを脱いだ。そうして下着1枚の姿で、俺は再びベッドへと戻った。
俺は仰向けに寝転んだまま、今週の仕事を振り返る。月曜は提携先からクレームがついた。火曜は部長に呼び出しをくらった。勿論、こっぴどく叱られた。水曜は特に何事もなかった。木曜は埼玉の会議に行った。そして今日は、わけのわからない部署の飲み会。
俺は深くため息をついた。それから目を閉じて、自分に言い聞かせる。確かに苦難の1週間だった。でも、今週は終わった。明日も明後日も休みなのだ。何をするも俺の自由。自由なんだ。
そう意識した途端、ふっ、と体が浮き上がったような気がした。だが勿論、そんな気がしただけで実際には体に変化はない。俺の体は変わらずベッドに沈み込んでいる。
大学を卒業して、そのまま旅行会社に就職した。1年目はわけもわからず、ただただ必死だった。目の前に現れた仕事を、目についた順番に片付けることで精一杯だった。それから2年目。きつかった。仕事の流れは覚えたのはいい。だが、それなりの成果を要求されるようになった。後輩もできた。後輩は周りが全く見えていなかったからよくつまらないミスをしたし、それをカバーするために走り回らなくてはならなかった。
おそらくは1年目の俺もそうだったのだろう。自分ではわからなかっただけで、俺の代わりに走り回ってくれた誰かがいたのだろう。しかしいざ俺がその役回りになってみると、それはなかなか大変なものだった。
そうして今は3年目の春。今のところ、2年目よりもさらにストレスフルだ。全く、いつになったら楽になるのだろう。退屈はしない。刺激はあるし(ありすぎるのが問題だが)、自分の成長を感じないこともない。残業代はしっかりと出るし、繁忙期を除けばそこまで労働時間が長いというわけでもない。ただし仕事に対するプロ意識が常に要求されるような職場だ。職種が、という意味ではなく、おそらくはそういう社風なのだろう。
今日はこのまま寝てしまおう、と俺は思った。まだシャワーも浴びていないし、アルコールが脳を攻撃しているけれど、それほど眠いわけでもない。しかしどうにも動きたくない。目を閉じてあれこれ考えていれば、そのうちに眠ってしまうだろう。そして気付けば朝だ。
突然、じん、と何かを感じた。俺は困惑した。何だろう。そしてすぐに気付いた。
ああ、性欲か。そういえばここしばらく、全くと言っていいほど射精をしていない。少なくとも1週間、もしかすると2週間かもしれない。
彼女はいない。何度が彼女がいたことはあるし、遠からずまたできるだろうとも思う。しかし、どうにも長続きしない。大学の時に1年半付き合った子がいた。でもそれが最長だ。
彼女達と別れる理由は様々だった。どちらともなく連絡を取らなくなって自然消滅したこともあるし、好きな人ができたと言われて振られたこともある。しかし原因を辿れば、おそらく全ては俺のせいなのだろう。
俺は結局、彼女達のことを好きではなかったのだと思う。
初めて彼女ができたのは大学1年生の冬だった。同じサークルの、同い年の子だった。知り合ったのは入学直後で、同じサークルに入ったことで友達になった。可愛らしい人だった。茶系のアッシュカラーで髪を染めていたけれど、派手なタイプではなく、しかし人と仲良くなるのが上手かった。彼女の笑顔はいつも周りを和ませたし、誰に対しても穏やかだった。俺は彼女をただのサークルメンバーの1人としか思っていなかったけれど、彼女が時々俺を見ていることにある時気付いた。理屈ではなく、直感だった。彼女はおそらく、俺のことを悪からず思ってくれているのだろう、そう俺は感じたのだ。
俺はそれに気付いてから、当然彼女を意識するようになった。ある時、サークルでの飲み会の後に、1人暮らしをしていた彼女の部屋に呼ばれた。俺1人だった。その夜に俺は童貞ではなくなり、そして初めての彼女ができた。
俺は彼女のことが好きだった。少なくともその時はそう思っていた。しかし付き合い始めてから半年ほどした頃、彼女は俺から去っていった。自分で驚いたのは、俺がそのことをさして残念に思っていないことだった。悲しくもなければ、落ち込みもしなかった。きっと彼女はどこかで気付いたのだ。俺が他の誰かに心惹かれ続けていたことに。
もちろん彼女に、俺は他の女に未練があるなどという話はしたことがない。俺は彼女だけを好きだと言っていた。俺は俺なりに彼女を大切にしていたし、彼女はもちろん俺のことを好きでいてくれていた。
彼女には人を見抜く目があった。他人の心を見抜く力があった。彼女はどこかのタイミングで、俺の心を見抜いてしまったのだ。俺自身も気付いていないような深い部分まで。
当時、俺はどうして振られてしまったのか、その理由がわからなかった。俺は彼女を信じていたし、彼女のことを好きだと思っていたし、彼女もまた俺のことを心底好きだった。けれども彼女は俺から去った。
今ならわかる。俺は彼女のことを好きではなかったのだ。というより、俺の心の奥には「あの人」の存在がどうしようもなくあり続けていた。だからこそ彼女は俺から去っていった。もし「あの人」がいなければ、彼女は今も俺の隣にいてくれたかもしれない。しかしそれはありもしない仮定の話でしかないのだ。
その後、大学にいる間に2人の女の子と付き合った。そのうちの1人は1年半続いた。けれどもやはり、どちらとも上手くいかなかった。付き合っている人と喧嘩をしたことはない。何か問題が起きれば俺はすぐに謝るし、そもそも不満や問題が現れないように気をつけていた。それでも彼女達は俺に愛想を尽かしていった。
社会人になってすぐ、友達の紹介で1人の女性と知り合った。1歳年上の大人っぽい人だった。大人っぽい、というより、実際に大人な人だった。容姿が大人びていたのではなく、彼女の人格には深みがあった、という意味で。
彼女の名は優里と言った。美人というわけではなかったが、彼女には雰囲気があり、そしてそれに伴う格があった。
俺は彼女を優里さんと呼んでいた。確かに彼女は1歳年上ではあったけれど、別に会社や大学の先輩というわけでもない。それでも、どうしてか俺は彼女のことをさん付けで呼んでいた。
彼女は優しかった。彼女の声には、俺をいつでも肯定してくれるような響きがあった。彼女の腕の中は暖かかった。一方で、彼女はどことなく儚かった。彼女は何かを抱えて生きているように思えたし、そしてそれはおそらく空白なのだろうとも思った。俺は時々、物憂げな彼女の横顔を見た。けれども俺は見て見ぬ振りをした。そうして俺は彼女に甘えるだけだった。きっと俺は怖かったのだろう。彼女が持つその空白を、俺が埋められる自信がなかったのだ。
結論から言えば、結局優里さんとは半年も持たずに別れてしまった。けれど「あの人」を除けば、優里さんとの出会いほど俺にとって重要な出会いは無かった。
優里さんと付き合い、印象的だった出来事がある。
優里さんと付き合い始めた頃、俺は優里さんとカラオケに行った。特に目的もないデートであったから、日々の仕事の気晴らしにカラオケにでも行こうというものだった。カラオケに着くと優里さんがマイクを握り、流行りの曲を1曲歌った。気付くと俺は涙を流していた。音楽のことはあまりよくわからない。にもかかわらず、俺はただのカラオケで感動したのだ。
優里さんの歌声は素朴だった。派手なビブラートもなく、ただストレートに声を曲に乗せていた。けれどもその奥に深い情念があった。趣があった。気持ちがあった。言葉がリズムにぴたりと合わさっていた。おそらくは音程もほとんどズレていなかったのだろう。
後から聞いたことだが、優里さんはどうやら大学の時、バンドをしていたらしい。それもボーカルではなく、ベースギター(それがどういうものなのかよくわからないが)の担当だったようだ。とはいえ。バンドを経験していたからといって、そんな歌が歌えるものなのだろうか。
他にも印象に残っていることがある。それは確か、優里さんと付き合って1ヶ月くらい経った頃だったと思う。優里さんは俺のこの部屋によく来てくれていた。そうして2人でベッドに入っていた時のこと。
「優樹君はさ、失恋ってしたことある?」と優里さんは言った。
俺は少し考えて、そして答えた。
「あるよ。明確に振られたわけじゃないけれど。優里さんは?」
「もちろんある。とびきり大きなやつをね。でも、私はもうそれを昇華した。優樹君はどう?」
「昇華?」
「そう。私は以前、とんでもないダメージを受けた。でもそれは過去のものなの。そしてそれを私は受け入れている、そういう意味」
「俺は……、どうだろう。でも、優里さんのことが好きだよ」
俺の言葉を聞いて、優里さんはふふっ、と笑って言った。
「いいよ、今はそれでも。でもね、私には時間があまりない。優樹君は好きなだけ、私に甘えていい。ただし女の子をあまり待たせるものじゃない。私だっていつかはいなくなる。それを覚えておいて」
あの時、優里さんはそう言っていた。きっと優里さんも気付いていたのだろう。俺の心の奥底に、優里さんではない他の誰かがいたことに。
それまでに付き合ってきた3人の彼女達は、直感や女の勘でそれを感じ取り、あるいは無意識に感じ取り、やがて俺から去っていった。しかし優里さんは少し違った。優里さんは俺の言葉や態度、表情、そういったものから俺の心を見通した。俺が2を話すと、優里さんは小さな小さな部品を集めて再構成し、10を読み取ることができた。俺と優里さんの会話はいつでも誘導尋問のようなものだった。全ては優里さんの手のひらの上だ。そして凄いのは、誘導尋問されていることに俺は気付かず、しかも心地良く喋らされていたということ。もしかすると優里さんは心理学に通じていたのかもしれない。優里さんはそういう、特殊な技術のようなものを持っていた。
いずれにせよ、俺はもう優里さんの彼女ではないし、優里さんがどこで何をしているのかもわからない。優里さんとのいくつもの記憶が、ただ俺の中に残っているだけだ。
俺は枕元に置いていた腕時計を見た。暗かったので見づらかったが、0時50分を少し過ぎたところであった。
帰ってきてからもう1時間も過ぎたのか、と思うと、突然に眠気が俺を襲った。脳がくらくらとして一段と重くなる。
明日の予定は無い。さらに言えば明後日の予定も無い。とりあえずはのんびりした週末を送ろう。さあ、おやすみなさい。
意識はすぐに遠くへと沈み、やがて眠りがやってきた。
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