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第14章 ふたつめ
日が昇り、日が落ちる。また日が昇り、日が落ちて、そしてまた日が昇っていく。
雨が降っていた。俺はベッドで仰向けに寝転んで雨の音を聞いていた。
今日はおそらく火曜か水曜か、そのあたりだと思う。時間の感覚がない。今週は全て有給を取った。今まで有給を申請したことなどなかったし、俺はそれなりに人事評価も良いからか、急な電話での申請でも課長は受け入れてくれた。
あの夜以来、何も食べていない。緑茶と水は飲む。食欲はない。性欲もない。気付いたら寝ていて、そうでない時は起きている。
ここのところ1週間ほど、菜々はこの部屋に帰ってきていない。どうせそのうち現れるだろうから心配もしていないが。
俺はこの失恋を心から望んでいた。そこに嘘偽りはない。暗闇から抜け出すにはそれしかなかったのだから。
しかしどうだ。俺がこれほどまでに弱い人間だったとは。5日間の有給休暇を申請した本当の理由が、まさか失恋だとは課長も思っていないだろう。
体に力が入らない。力を入れようとする神経回路が遮断されているかのようだ。何も食べていないからエネルギーが足りていない。しかしエネルギーがあったとしても、動く気力もない。
礼奈の言葉が何度も、何度も繰り返される。
『私にとって、優樹はただの高校の同級生なんだ。それ以上でも、それ以下でもない』
『ありがとう、優樹。そしてごめんなさい。私はもう優樹と会うことはない。連絡をすることもない。どうか、元気でね』
礼奈に今、彼氏はいない。それに近しい人すらいない。少なくとも礼奈はそう言っていた。きっとそれは真実だろう。いや、もし仮に彼氏がいたとしても、礼奈はいないと言った。それはつまり、彼氏の有無にかかわらず俺との恋愛は拒絶する、そういう礼奈の意思表示なのだ。
男女の友情は成立するか。よく意見が分かれる、鉄板の議論テーマだ。しかし俺と礼奈の間には、もはや議論の余地すらない。俺は礼奈に恋愛感情を持ってしまっているのだから。
礼奈は俺を突き放すしかなかった。礼奈は俺を拒絶せざるを得なかった。なぜなら俺が礼奈をあまりにも意識しすぎてしまっていたから。
今日は私の番、そう礼奈は言っていた。礼奈は率先して悪役を引き受けた。俺に何も言わせず、俺が気持ちを伝える前に。
礼奈はおそらく、少しの疑念を持ちながら飲み会に来たのだろう。きっと優樹は私のことなどもうなんとも思っていないはずだ、しかし万が一、そうでなかったとしたら。そんな疑念を。
そして礼奈の予感は当たってしまった。俺が礼奈に彼氏はいるのかと質問した時、礼奈は全てに気付いてしまった。
普通の女の人ならば、俺の気持ちに気付いていない振りをするのだろう。しかし礼奈は違う。自らその話に踏み込んだ。だからこそ礼奈は礼奈なのだ。
さて。こんな思考の堂々巡りをいつまで続けるのだろうか。これでもう何回目だ。考えても仕方ない。拒絶されたあの夜を思い返しても仕方ない。わかっている。わかってはいるのだが。
俺は後悔しているのだろうか。もし俺が気持ちを伝えようとしなければ、楽しくお酒を飲んで、またそのうち会おうと言って礼奈と別れることができたのかもしれない。
しかしその先には最悪の結末が待ち構えている。俺は無意識に奇跡を期待してしまう。その後も礼奈と何度か会い、そして浮かれ上がった時、俺は現実を知ることになるだろう。
礼奈も俺と同じ人間だ。ならば礼奈が心変わりする可能性だってある。今はそうでなくとも、いずれ俺を異性として見てもらえるようになる、そんな可能性。
しかし、礼奈はその可能性はないと判断した。礼奈のことは礼奈自身が最もよく理解している。だから礼奈は俺を突き放すことにした。きっとそれは、俺の為に。
こうするしかなかった。俺は礼奈と会って、気持ちを伝えようとするしかなかった。しっかりとした形で失恋することでしか、暗闇を抜け出すことは叶わないと信じていたのだから。
しかしどうすればいい。ここまでのダメージを負うとはさすがに予想外だった。俺は何かを間違えたのか。あるいはここまで地獄を見せられようとも、これが最善だったのだろうか。
優里さんの言葉が突然、脳裏をよぎった。
『優樹君はさ、失恋ってしたことある?』
そうだ。優里さんの言うところの失恋は。
『そう。私は以前、とんでもないダメージを受けた。でもそれは過去のものなの。そしてそれを私は受け入れている、そういう意味』
優里さんはきっと、こんな失恋を乗り越えたのか。敵わないわけだ。
俺のこの失恋も、いずれ過去のものになる。いや、そうしなければならない。しかし俺にそれができるだろうか。一生、このまま生きていくのではなかろうか。
駄目だ。乗り越える為の糸口すら見つからない。こんなはずではなかった。こんなはずではなかったのに。
まずはしっかりと失恋をする。多少ダメージを受けるだろうが、しかしそれを乗り越える。そして俺は暗闇から抜け出せる。俺はそう考えていた。
しかしそんなに甘くはなかったのだ。少し考えればわかることだった。俺はどうしようもなく礼奈に囚われてしまっていた。その礼奈に拒絶された時、俺がどうなるかなど、すぐに想像できたはずだ。
きっと俺は無意識にそれを考えないようにしていたのだろう。暗闇の苦しみから逃れたい一心で、まともに計画を立てることができていなかった。
どうしようもない。
どうしようもないのだ。
この先、俺はこのまま生きていかなければならない。暗闇から抜け出すどころか、さらに深い闇の奥底に落ちたままで。何年も、何十年も、おそらくは死ぬその時まで。
未来、という言葉には輝かしい響きがある。未来は明るいものでなくてはならない、そんな強迫観念すら感じるほどに。そういう意味では、俺にもはや「未来」はない。ならば俺は、どうして生き続けなければならないのか。
俺は生きていくべきではないのだ。
弱い。俺はなんと弱い人間なのだろう。
もし死ぬことができたなら。しかしそれは絶対に礼奈に知られることのないようにしなければならない。礼奈に罪悪感を抱かせるようなことは避けたい。
まずは会社を辞めよう。明日か明後日あたり、課長に電話をしよう。それから俺は。
「ひどい顔。ゾンビだってもう少し顔色が良いと思うな」
ベッドに横たわる俺を見下ろすように、そこには菜々が立っていた。
「……お前」
声が思うように出ない。それもそうだ。もう何日も言葉を発していないのだから。
「私は何者でもない。でもね、役目はあると思うから」
菜々はそう言った。
こいつはなんなんだ。突然いなくなったと思えば、こうしてまた突然現れる。そして何よりこいつの顔は。
「お前、その顔を俺に見せるな」
「どうして?」
「今、一番見たくない顔だ。とにかく出て行け。もう二度とここに来るな」
「そんなこと言ったって、ここにいなければ私は存在できないもの」
またこれだ。この訳のわからない言い回し。俺をからかっているとしか思えない。
「なんなんだ」
「ん?」
俺は勢いよく起き上がり、そして立ち上がって叫んだ。
「お前、は、一体! なんなんだ!」
「私は私。優樹の味方。それだけ」
「出て行け! ……出て行けよ!!」
「大丈夫だよ」
何が大丈夫なのか。こいつはどこまで俺を馬鹿にしているんだ。ここまで人を怒らせることができるのは、もはや才能だ。
「いい加減にしてくれ。頼む。もう、頼むから出て行ってくれ。頼むよ」
視界が滲んでいることに気付いた。頭が痛い。体調がおかしくなっている。いや、違う。これは。
ああ。俺は泣いているのか。
「つらいんだね」
菜々はそう言って俺の頭を右手で撫でた。
「……やめてくれ」
しかし菜々は撫でるのをやめなかった。
「優樹はすごいよ。礼奈さんもすごい。誰も悪くない。そうだよね?」
「お前に何がわかる」
「わかるよ。優樹が苦しんでいるんだから」
「もういいんだ、全部終わったんだ。俺は、もう、駄目なんだ。だから」
「ねえ」
「……何だ」
菜々は俺の頭からようやく手を離し、ベッドに座った。
「優樹はさ、命に意味があると思う?」
「どういうことだよ」
「私はあると思うな。人は、誰かを好きになってようやく人になる」
「それなら俺はもう、人じゃない。だからもういい」
菜々はベッドに座ったまま、立っている俺を見上げるように、真っ直ぐに見つめた。
「優樹。私はあなたのことが好き」
「何を、言って、いる」
今までの菜々の言動。全て意味がわからなかったが、いよいよもって本当に訳がわからない。
「私はね、優樹のことが好きになってしまった。だから私はようやく存在できたの」
「好き、っていうのは、そういう意味で?」
「そう。だから私を消さないで。もし優樹がこの世界からいなくなってしまったら、私の存在もなくなってしまうでしょう?」
「いい加減なことを言うな」
「ごめんなさい。信じてもらえないよね。それに私、私ね、そんなこと許されないのに。でもね、私は……」
そこまで言うと菜々は俯き、言葉を詰まらせた。背中を丸めて俯く菜々は、とても小さく、幼く見えた。そして俺は気付いてしまった。菜々が涙を落としていることに。
こいつは、いや、菜々は俺を必要としている?
俺は、必要とされている?
理屈ではない。俺は菜々を信じている。菜々の素性は何もわからない。しかしそれでもいい、俺は菜々を信じると決めたはずだ。
俺は菜々に感謝している。俺は菜々のことを悪くは思っていない。そしてその菜々が、俺のことを必要だと言っている。
俺のことが好きだから、と。
礼奈と菜々の外見がどれほど似ていようと、礼奈は礼奈、菜々は菜々だ。菜々にとっては、礼奈と外見が似ていることなど知ったことではない。礼奈と外見が似すぎていて困る、それは俺の都合じゃないか。
ああ。
俺は菜々にまた、救われてしまったな。
「菜々」
菜々はゆっくりと顔を上げた。涙が彼女の頬を伝っていた。
「ありがとう。俺はまず、菜々のことを大切にしてみようと思う」
「……うん、うん」
菜々はそう言いながら頷いた。
「もう大丈夫だ。本当にありがとう」
「そ、それじゃ、私……」
「なんだい?」
「私、本当に普通の人みたい。そんなこと、だめなのに。こんな素敵なこと、私に起きていいはずがないのに」
「よくわからないけれど、菜々は菜々だよ」
菜々は立ち上がり、突然俺に抱きついた。俺を強く抱きしめ、彼女の涙は俺の肩を濡らした。
俺は突然、空腹を感じた。感覚が戻っていく。心が色を取り戻していく。
「ごめんね。ごめんね。私、こんな。でも、でも」
菜々の手は震えていた。
「優樹。本当に、本当に、ありがとう」
「こちらこそ」
この時から、菜々が気まぐれに姿を消すことはなくなった。ただし『あの時』がやって来るまでは、ということだが。
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