第2章 あの人

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第2章 あの人

 爽快な土曜日の朝は過ぎ、俺が目を覚ましたのは11時を少し回った時だった。昨日のアルコールのせいで、頭の中が揺れている。窓から太陽の光が部屋に差し込んでいた。  ゆっくりとベッドから起き上がり、自分が下着1枚でほとんど裸同然だったことに気がつく。煙草を吸い、服を着ようとハンガーに手をかけようとした時、まだシャワーを浴びていなかったことを思い出した。下着を脱いで洗濯機の中へ放り込み、シャワーを浴びた。その後になぜか冷蔵庫の中に入っていたりんごを軽く水で洗って齧って食べた。  くたびれたTシャツを着て、色味の濃いタイトジーンズを履く。それからスーツのポケットに入ったままになっていた携帯を取り出し、画面を開いた。メッセージが表示されている。慶太からだった。 『どうせ暇だろ。今日の夜、新宿に来い』  内容はそれだけだった。  別に構わないけれど、これだけでは何もわからない。そこまで決めつけて誘うのなら、時間と場所も指定してほしいものだ。  俺は集合の時間と場所を尋ねる返信をして、それから携帯をベッドの上に置き、椅子に座って天井を見上げた。  慶太と会うのもなんだかんだ久しぶりな気がするな。最後に会ったのはいつだっただろうか。思い出せないが少なくとも半年以上は顔を見ていないはずだ。 『私だっていつかはいなくなる。それを覚えておいて』  突然、その言葉が俺の脳をよぎった。2年ほど前、優里さんは俺にそう言った。  確かに優里さんは俺の前からいなくなってしまった。ただし突然消えたわけではなく、しっかりと別れの挨拶をして。  優里さんの連絡先は消していないから、その気になればメッセージを送ることもできるし、電話をかけることもできる。でもそれはするべきではないと思ってきた。連絡をする必要もない。そしてそれは、これからも変わらないだろう。優里さんから連絡が来たりすれば話は別だが、それもまず考えられない。  いなくなる。少し気にかかる表現だ。どうして別れるという直接的な表現ではなく、いなくなるという言葉を使ったのだろう。まあ、今更2年前の優里さんの言葉を気にしても意味なんてないけれど。  優里さんと俺を引き合わせたのは、慶太だった。慶太はとあるアーティストが好きで、そのファンコミュニティの中で優里さんと知り合った。やがて2人は仲良くなったが、どういう経緯か、慶太は俺に優里さんを紹介した。慶太には人を見る目があったようだ。半年で別れはしたが、俺は優里さんに惹かれ、優里さんも俺を気に入ってくれた。  俺と優里さんは尋常ならざるスピードで距離を詰めていった。俺は優里さんと知り合ってからものの数週間で付き合い始めることになった。俺は優里さんのような人を求めていたし、優里さんは優里さんで、俺を以前から知っている人のように上手く扱った。  優里さんに兄妹はいない。私はひとりっ子だと優里さんは言っていた。けれども優里さんに弟がいたとしてもおかしくないと俺は今でも思っている。まるで姉と遊ぶ弟のように、俺は優里さんに包まれていたような気がする。それに優里さんの言うことはどれも、本当か嘘かまるでわからなかった。  ベッドに置かれていた携帯がぱっ、と画面を光らせた。慶太からのメッセージが返ってきたのだ。携帯を手に取り、そのメッセージを読む。 『20時。底やりに直接来い。予約はしておく』  底やりとは新宿の居酒屋の名前だ。慶太の友達がそこでアルバイトをしていたから、何度か慶太と行ったことがある。  わかった、とだけ返信をし、携帯をジーンズのポケットに入れた。  さて。20時までは時間がある。大井町駅からりんかい線に乗れば新宿までは30分とかからない。歩く時間を考えても19時過ぎまでは自由だ。かといって外に出る気にもなれない。とりあえずは。  俺は洗濯物をまとめて洗濯機の中に入れ、蓋を閉めてスイッチを入れた。それから再び椅子に座り、組み立て式の簡素な机の上にあるデスクトップパソコンの電源を入れる。  3日ぶりくらいか。腕が落ちていなければいいのだが。  パソコンを立ち上げ、起動したのはFPSのオンラインゲーム。FPSとはファースト・パーソン・シューター。要するに銃を持って敵を倒す、戦争ゲームのようなものだ。俺はパソコンの端子に繋がれたヘッドホンを装着した。  FPSには様々なゲームタイトルがあるが、俺がのめり込んでいるのはこの『ブルーライト』という6対6で戦うゲーム。自分を含めて12人のプレイヤーが敵味方に分かれてチーム戦を行うというもの。世界中のプレイヤーとオンライン上でマッチングされ、腕を競い合うのだ。  俺がゲームを始めて数十秒待つと、プレイヤーがマッチングされた。俺は小柄な男キャラクターを選び、味方の5人もまたそれぞれキャラクターを選んだ。試合開始だ。  味方のキャラクターがそれぞれ走り出す。有利な位置を確保するためだ。敵と交戦する前から、戦いは始まっている。俺もまた、味方と共に行動した。  俺の選んだキャラクターは、傷ついた味方を治療できるというものだ。勿論これはFPSであり、銃で敵を倒すゲームであるから、基本は戦うことになる。  しかしそれだけでは勝てないのだ。このゲームは6対6のチーム戦。味方それぞれが得意とする行動があり、役割が分かれている。体力が多く、障害物を壊すのが得意なキャラクター。足が速く、敵陣の偵察に向いているキャラクター。威力の高い銃を持ち、敵に大きなダメージを与えるキャラクター、といったように。  それぞれがチームとして連携し、チームの勝利を目指す。自分勝手な行動をしていては、勝つことが難しくなってしまう。サッカーやバスケットボールのような球技と何ら変わりない。  近年の対戦ゲームはまるで現実のようにグラフィックが美しく、競技としての戦略性が高く、プレイヤーの技術が大きく影響するようになってきている。インターネットにより様々な情報が共有され、対戦競技としてのレベルは日々高くなっていく。  ごく一握りのトッププレイヤーの中には、プロと呼ばれる人もいる。スポンサーがつき、ゲームプレイで魅せることを職業としている人達だ。一般のプレイヤー達は彼らから知識や技術を学び、あるいは彼らが魅せるハイレベルな戦いに熱狂する。ゲームタイトルは更に売れ、スポンサー企業の宣伝塔となり、そうして彼らは業界を盛り上げるのだ。  こういった背景から、ここ数年ではeスポーツという言葉が浸透し始めている。エレクトロニック・スポーツ。ゲームは時間潰しの娯楽なだけではなく、高度な戦略性を伴った競技としても認められ始めているのだ。子供から大人まで、どんな人をも熱中させ得る魅力が、対戦ゲームに生まれつつある。  味方が1人、少し離れた場所で敵と交戦している。俺は物陰に隠れて敵の様子をうかがっていた。が、気付いた時にはもう遅かった。敵が1人、俺の背後に回っていたのだ。銃弾の雨が降り注ぐ。反撃するも間に合わず、俺のキャラクターの体力は0になってしまった。 「……くっそ!」  俺はヘッドホンを外し、ベッドへと放り投げた。パソコンに繋がれたままのコードがぴん、と伸びる。  俺は画面を見る。敵はまだ誰も死んでいない。すぐに味方がもう1人、敵に落とされてしまった。これで味方はもう4人しか生き残っていない。俺が死んでしまったとしてもチームが勝てば勝利なのだが、しかしこれでは。  案の定、その試合は負けてしまった。そして俺のレートは20下がった。  プレイヤーの強さは、レートで表される。レートは数値で、勝てばその数値は上がり、負ければ下がる。つまりレート2000のプレイヤーはレート1500のプレイヤーよりも強い、ということだ。  俺はその後、5試合ほどした。しかしその全てに負けてしまった。レートは大きく下がり、苛立ちからとんとんとん、と机を指で叩き続けていた。  ああ、レートを100も溶かした。100上げるのに一体どれほど時間をかけたと思っているんだ。くそ、くそ、くそ。  その時、洗濯機が音を立てて止まった。俺は椅子から立ち上がり、大量の洗濯物を取り出した。バスタオル、ハンドタオル、Tシャツ、靴下、Yシャツ、Yシャツ、パンツ、Yシャツ、ジーンズ。そのまま腕にそれらを抱えてカーテンのすぐ下まで運ぶ。カーテンレールにかけたままのハンガーを手に取り、その洗濯物を干していった。  部屋干しでいいだろう。煙草の臭いが多少ついてしまうかもしれないが、しかし雨が降られても面倒だ。いや、まあこの天気では雨は降らないだろうが、天気なんてものはいつどうなるか、わかったものじゃない。  洗濯物を全てハンガーにかけ終えると、俺は再びパソコンへと戻った。ゲームのメニュー画面が映し出されている。そこには鋭い目つきをしたゲームの男キャラクター。戦いが全て、争いが全てだと言わんばかりの眼光だった。  わかっている。俺は本当はわかっているんだ。このゲームのトッププレイヤーのレートは5000を超える。俺のレートは1200。初心者に毛が生えた程度のレートだ。俺はこのゲームをかなりやり込んでいるにもかかわらず。  1年前、友達3人と同時にこのゲームをやり始めた。最初の頃はそいつらと通話をしながら一緒に遊んでいた。しかしそのうちにやらなくなってしまった。気付いた時には、俺だけが下手なままだったのだ。おそらくそいつらのレートは今頃3000を超えているのだろう。  昔からそうだった。アクションゲームや対戦ゲームで友達に勝ち越した記憶がない。友達の家でゲームをして遊び、その帰り道は気分が悪かった。それでもゲームは大好きだった。ロールプレイングゲームや、育成ゲームを好んでよく遊んでいた。お年玉の使い道はだいたいゲームソフトやゲーム機だった。  一方で、運動はできた。体育の授業ではだいたい活躍していたような記憶がある。当時はあまり考えたことがなかったが、ゲームが下手なことから考えるに単に運動能力が高かったのだろう。物事を早く習得するセンスとは無縁ながら、単純に力が強かったり、足が速かったりしたのだ。  では俺はどうしてこんなにも対戦ゲームにのめり込んでいるのだろう。もちろんゲームは好きなのだけれど、もはやそういうものではない気がする。  ああ、きっと意地になっているのだ。下手だからこそ、センスがないからこそ、向いていないからこそ、俺はこのゲームをプレイしている。社会人の少ない自由時間を、この無謀な挑戦に費やしている。  かまうものか。逃げたりはしない。向き不向きは誰にでもある。そして、何をするか、何を選ぶか、その選択権は自分にあるのだから。  こうしてゲームに煮詰まると、俺は決まって「あの人」と2人でゲームをした時のことを思い出す。  そうさ。ゲームが下手なことは悪いことばかりじゃない。そのおかげであの時、俺と礼奈は本気で戦いを楽しめたのだから。  その時、俺は高校2年生だった。  礼奈とは同じクラスだった。家もそれなりに近かったが、高校で初めて知り合った。礼奈は肩にかかるくらいの長さの髪を茶色に染めていた。おそらくは市販のカラーリング剤を使って自分で染めていたのであろう、ところどころにムラがあった。根元が染まっていないこともよくあった。それでもなぜか、礼奈の髪には清潔感があった。それはいつでも軽やかだったのだ。  そんな礼奈の髪を見ながら、俺と礼奈は対戦格闘ゲームをしていた。俺と礼奈は同じコンビニでアルバイトをしていて、その帰りに礼奈が俺の家に遊びに来たのだ。シフトは22時までであったから、それなりに遅い時間に。その夜、俺の両親は偶然いなかった。理由は思い出せない。  俺と礼奈はリビングのソファに隣り合って座り、画面の中で戦っていた。礼奈は背の高いクールな女性キャラ、俺は筋骨隆々の巨大な男キャラを使って。 「なかなかやるね」と礼奈は言った。 「それはそうだろ。俺の家にあるゲームなんだから」  戦いは互角だった。礼奈が勝つこともあれば、俺が勝つこともあった。表情には出さないようにしていたが、俺は心底悔しかった。俺は何度もそのゲームを遊んでいたけれど、礼奈は初めてだったからだ。  俺は礼奈の横顔を見た。礼奈はコントローラーを握り、一心に画面を見ている。礼奈の瞳に画面の光が映り込み、輝いていた。しっかりとした二重の女の子らしい目だった。  こういう素直なところは良いところだけどな、と俺は思った。どうして突然バイトを休んでシフトに穴を空けたり、人に迷惑がかかることをするのか。そして礼奈の代わりにシフトに入るのは、ほとんどが俺だ。何か差し引きならない理由があるのなら仕方ない。けれどもおそらく、礼奈が突然バイトを休む理由はそうではない。誰かと遊ぶことになっただとか、夜更かしして体調を崩しただとか、そんな理由なのだから。 「今日は混んだな。疲れた」と俺は言った。 「あー、そうだね。ま、お給料をもらっているのだから文句は言うな」礼奈はそう言ったが、画面から目を離すことはしなかった。  しょっちゅうバイトを休んでおいて、よくもまあそんなことが言えたものだ。全くこいつは。  礼奈は少なくない数の人に嫌われている。敵をすぐに作るのだ。まあ高校生の女子なんてものは大概いざこざするものだけれど、それにしても礼奈を嫌う女子は数人どころではない。  礼奈は陰口を徹底的に嫌う。だからこそ礼奈は、絶対に陰口を言わない。それは良いことだと思う。でも問題はそこではない。陰口こそ言わないが、礼奈はその本人に聞こえるように文句を言うのだ。  それは本人と面を向かってだったり、本人の耳に入るような単なる大声であったりする。とにかく、陰口ではなく直接言うのだ。俺はそんな現場を何度か見たことがあるし、礼奈も常々明言していること。それが礼奈のポリシーなのだ。  そして礼奈が言うことはだいたい正しい。それは文句であったり悪口であったりするが、正論なのだ。あるいは正論ではなくとも人情として当然のものであったりする。  礼奈はめちゃくちゃな人間だと思う。バイトは休むし、口調は時々きつい。学校には礼奈の敵だらけ。それでいながら、俺の憧れの先輩達と礼奈は仲が良い。俺はその先輩達と挨拶できただけでも嬉しいくらいなのに。  俺はバイトを休む礼奈に対して怒りを感じ、憧れの先輩達と仲良くしている礼奈に嫉妬している。礼奈のことはよく思っていない。でも、どうしてか嫌いにはなれない。だからこそこうしてゲームをしているのだけれど。  でも、俺はどうして礼奈を嫌いになれないのだろう。 「はい、私の勝ち! キックが甘いんじゃないの?」礼奈が勝ち、右腕を挙げた。 「うるせえ」 「何その言葉使い。生意気が過ぎる」 「次は勝つ」と俺は言った。  礼奈はぱっ、と笑って、それからコントローラーを握り直した。  ああ、これだ。礼奈は口を開けて口角をぐっとあげ、本当に嬉しそうに笑う。二重に包まれた瞳をキラキラと輝かせて。  礼奈は真っ直ぐだ。めちゃくちゃな人間のように見えて(実際めちゃくちゃではあるが)、どこかで芯が通っている。礼奈は多くの人に嫌われてはいるが、礼奈はその人達を嫌ってはいない。そして礼奈は、数少ない友達を本当に大切にする。  礼奈はおそらく、たとえゲームであっても俺に手を抜かれたら怒るだろう。礼奈はそういうことにすぐ気がつく。礼奈が今、本当に楽しそうにゲームをしているのは、俺が本気でやっているとわかっているからだ。  俺と礼奈の関係は不思議だ。ただのクラスメイトだし、たまたまアルバイトが同じなだけだ。家も近いけれど、幼馴染というわけでもない。俺は礼奈のことをそこまで良く思っているわけでもないし、礼奈だってそうだと思う。それでもこうして、2人で遊んでいたりするのだ。  それから1時間ほど対戦に熱中し、そうして日付が変わる前に礼奈は帰っていった。  そんなこともあったな、と24歳の俺は思う。もしかするとあの時の記憶が、俺を対戦ゲームの底なし沼に引き入れたのかもしれない。  俺はヘッドホンを装着して、コントローラーを握り直す。パソコンの中の戦場へと戻っていった。
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