第5章 再会

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第5章 再会

 仕事を終え、新宿駅からりんかい線に乗って大井町駅で降りた。改札を出て、駅に背を向ける。歩を進めていくにつれて周りにいる人は少なくなっていき、10分後には誰もいなくなった。俺は暗い夜道を肩を落として俯きながら歩く。街灯がひとつ切れかかっていた。  3日前、俺は礼奈に拒絶された。俺は今まで、何もしてこなかった。礼奈を忘れられないことを自覚しながら、それに蓋をしてきた。しかしあの時、自然公園で礼奈を見かけてしまった。俺は蓋を少しばかり開いた。開かずにはいられなかった。けれども開いたその隙間から入ってきたのは、現実の冷気だった。  もはや俺はこの深刻なダメージと現実に向き合う他なくなってしまった。俺は礼奈のことが今でも好きなのだ。しかし礼奈は。  どうしてこんなことになってしまったのだろう。一体何から後悔すればいいのだろう。最後のデートで、返事を受け入れなかったことか。それとも、諦めないと言いつつ礼奈に連絡することができなかった俺の臆病さをだろうか。あるいは俺のことを好きになってくれた人が何人もいながら、その人達のことを心から好きになれなかったことだろうか。  町田に行った、7年前のデート。あの時に俺はしっかりと振られるべきだったのだ。返事を受け取り、失恋する。そういう過程を経験せずに7年も経ってしまった。そもそも、あの時礼奈は俺を振るつもりなどなかったかもしれない。付き合ってもいい、そんな返事をしてくれたかもしれないのだ。  だめだ。もう全ては過ぎたことだ。もしあの時こうしていたら、もし、もし。そんなことを考えても何も進まない。それはわかっている。それでも考えずにはいられなくて。  足取りは重い。前を向きたくない。足下だけ見ていれば歩ける。駅からそう離れていないのに、この辺りはなぜか車が通らない。  気がつくとマンションまであと5分というところまできていた。遠くから駅前の喧騒が僅かに聞こえる。シャッターを閉めた小さな商店の横を通り過ぎた。  足音が聞こえた。どうやら反対側から誰かが歩いてきているようだ。こんな時間に駅に向かっているのだろうか。けれども俺は俯いたままであるから、その足音の主がどんな人かはわからない。もちろんそれで構わない。知らない誰かとすれ違うだけのこと。  違和感を感じた。その足音はだんだんと近づいてくる。それはそうだ。その人は反対側から歩いてきているのだから。しかし何かがおかしかった。  そう、その足音は俺に向かっていた。  足音が止まる。その人は俺の目の前で立ち止まったようだ。  怖いな。変な奴に絡まれたくはない。こっちは気力も体力も限界なんだ。勘弁してほしい。  俺は立ち止まって、仕方なくゆっくりと顔を上げた。  するとそこには若い女性が立っていた。  彼女は俺に笑いかける。一方で俺は口を半分開け、目を見開き、その場に縛り付けられたように体の動きを停止していた。彼女の顔はとてもよく知っていたからだ。  足が笑っている。体が不安定に浮かんでいるような感覚。自分の鼓動が大きく聞こえる。  どうして礼奈がこんなところに。 「こんばんは」と彼女は言った。 「……え?」俺の口から漏れたのは、疑問を表すその一音だけだった。 「こんばんは、って言ったんだよ」そう言って彼女は口に手をあてて笑う。 「偶然?」 「いや、必然だよ」 「礼奈が、どうしてここに……」 「礼奈? 私は菜々って言います」何を言っているのだろう、という表情で彼女は俺を見ながらそう言った。  礼奈はふざけているのだろうか。どう見ても礼奈だ。7年経っても変わらない。もちろん3日前に自然公園で見かけた時とも。 「何をそんな。そんなことより、どうしてあの時は逃げたんだ。俺だってわかってただろ」 「ああ、ごめんね。でもね、いくら私でも初対面の人に追いかけられたら怖いよ」と彼女は言った。 「何が初対面だ」 「あの、さっきから言ってるけれど、私、礼奈って人じゃないです」  彼女が嘘を言っているようには見えなかった。  どういうことだ。彼女は本当に礼奈ではないのかもしれない。だとしたら一体誰なんだ。 「お前は……」 「だから、私は菜々って言います!」彼女は少し怒っているようだった。口をぐっ、と結んでいる。  別人だ、と俺は思った。  とんでもなく似ている。顔形は礼奈そのものだ。けれど、表情の使い方が違う。仕草が違う。笑った時、礼奈は口を開けて笑う。口に手をあてたりはしない。礼奈が怒った時は口元に変化はないけれど眉が動く。この人は眉が動かず、口元が変わった。  よくよく意識すると、声色も違う。声そのものは似ているけれど、礼奈よりも響きが明るい。そもそも礼奈は俺に対して絶対に丁寧語は使わない。たとえふざけていても。  それにしても似すぎている。身長もおそらくほとんど変わらないはずだ。顔にいたっては礼奈との違いが全くわからない。まあ7年も経てば多少は顔も変わるだろうが、礼奈の近況写真は時々SNSで目にしていて、やはりそれと変わらない。こんなことがあるのか。とても信じられない。 「えっと、菜々さん、だったっけ」 「うん。菜々でいいよ」 「菜々はどうして、俺に話しかけてくれたのだろう?」 「さあ。自分にきいてみたらどう?」と彼女は言った。  意味がわからない。会話になっていない。  それにさっきの会話からして、3日前に自然公園で見かけたのは礼奈ではなく、この人だったということになる。 「あの、すまない。この前は追いかけるようなことをして」と俺は言った。 「本当だよ。あの時はまだ私が安定していなかったから、余計怖かった」 「どういうこと?」 「え? そのままの意味だよ」彼女は不思議そうに言った。  一体何なんだ。わからないことが多すぎる。この菜々という人の精神が不安定だったということだろうか。仮にそういう意味だとしたら、そんなことは俺が知ったことではない。それなのに、まるで俺が彼女のことを何でも知っている前提で、彼女は俺と会話しているようだ。  今俺の目の前に立っている彼女は菜々というらしい。礼奈とは別人。そして自然公園にいたのは菜々。菜々とは自然公園で初対面だった。そして菜々はあの時、何かしらが安定していなかった。  何故彼女が今俺に話しかけてきたのかはわからないが(どうして初対面で突然追いかけてきた怖い男である俺に話しかけてきたのだろう?)、とりあえず筋は通る。しかしそれにしても、他人の空似という範疇を遥かに超えている。こんなにも似た人間がいるものだろうか。  俺が混乱し、あれやこれやと頭を動かしていた。そしてその間、随分と長く無言で立ち尽くしていたようだった。見かねた彼女が再び口を開いた時、俺はそのことにようやく気がついた。 「あの、礼奈って人は私とよく似ているの?」 「あ、ああ。似ている。すごく」 「ふーん。なるほどね」  何がなるほどなのか。勝手に納得しないでほしい。  待てよ。記憶喪失?  そうだ。記憶喪失は漫画や映画の中にしか存在しないものではない。例は少ないだろうが、確かに何らかの原因で記憶を失うことはある。もしかすると、今目の前にいる彼女は確かに礼奈で、しかし記憶を失っている。そう思わざるを得ないほど、彼女は礼奈と似ているのだ。 「菜々は、まさか記憶喪失したりしたのか?」 「ああ。違うよ。記憶喪失なんてしていないし、そもそも私は礼奈って人じゃない。全く信じてもらえないんだね」 「いや、すまない。そういうつもりじゃなかったんだ。でも、あまりに似ているから」 「いいよ。確かに実際、私にはあなたみたいに過去の記憶がたくさんあるわけじゃないし。ま、私はこれで失礼するよ。またね」  そう言い残して彼女は駅の方へと向かって歩いていった。  私にはあなたみたいに過去の記憶がたくさんあるわけじゃない。彼女は確かにそう言った。それはつまり、やはり記憶喪失した礼奈ということになるのだろうか。そして記憶喪失をしたということを彼女は何らかの理由で認めたくない、そういうことなのかもしれない。あるいはこれは礼奈の手の込んだ悪戯で、今頃俺を笑っている、そういう可能性もある。  しかし菜々の笑い方も、怒り方も、とても自然に見えた。そして明らかにそれらは礼奈とは違う仕草だった。ああいう咄嗟の仕草はそうそう偽ることができないはずだ。悪戯の線は消える。そして詳しくはわからないけれど、記憶喪失をしたとしても仕草はそう変わらないのではないだろうか。  姉妹だろうか。いや、礼奈には姉も妹もいないはずだ。もしかすると隠し子のような複雑な問題があるのかもしれないが。いや、仮に血の繋がりがあったとしても、あそこまで似るなんてあり得ない。一卵性双生児の双子だとしても、全く顔が同じなんてことはないはずだ。  わからない。菜々と礼奈が別人だとしよう。しかしそれはそれでおかしな点はある。まず第一に、あまりに似すぎていること。第二に、礼奈を知る俺が偶然自然公園で菜々を見かけたこと。奇跡にもほどがある。第三に、菜々にとってはわけのわからない男であるはずの俺に、ついさっき菜々から話しかけてきたこと。第四に。ああ、もうだめだ。頭が回らない。  突然頭痛がした。少しの間、その痛みに耐える。やがて痛みがおさまると、大きくため息をついた。  疲れた。早く帰って寝よう。  再びマンションへと向かって、俺は歩き出した。暴れていた鼓動の間隔が、ようやく普段通りに戻ろうとしていた。
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